Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 昨日今日と続けて目覚ましの鳴る数分前に目を覚ましました。時々感じることなのですが、実は僕はかなり正確な体内時計を持っているのかもしれません。適当に時刻を思い浮かべてみて±5分の精度で当たっているということがままある。その割に生活リズムは破綻しているから、単なる特技という以上のものではないのですが。
 ちなみにこういう目覚め方をする時というのはあまりうまく眠れていないことが多くて、今日も寝不足的頭痛があります。今日こそは早めに眠って、目覚めることを考えずにぐっすりと眠りたい。

 ここ数日は文章よりもPythonの方をたくさん書いているのですが、そのせいかしらん、この日記を書いていて何度か、改行したのにどうしてインデントされないのだろう?となりました。寝ぼけている感じがあります。Python、非常に良い言語だと思うのだけど、Pythonという名前の響きを個人的に好きになれないのが残念なところです。僕あんまりパ行すきじゃないのよね。

 大学に行って、情報メディア論のレポートを提出しました。結構まじめに書いたのでそれなりの評価を期待しています。ここのとこ書かねばならないレポートの量に圧死しそうです。この程度で何を、と言われてしまいそうですが。

 世界情勢にあまり興味がないので深くは調べていないのだけど、なにやらきな臭い雰囲気が漂っています。宗教や民族、思想の大きな対立があちこちで生じているらしい。ただ僕は、こういう文化的対立っていうのは表層的なものだと思っています。人々が争う根っこにあるものは、もっと微妙な、対人戦略の違いとでも言うべきものなのではないか、というのが、インドを旅していた時に感じたことです。例えば、謝罪と許しという構図は、かなり社会化された感情のルールだと思います。謝られてすっきりするなんて、考えてみれば妙な話です。例えば他者を慮る感情がもっと強く内面化されている社会集団では、自分の過失(それはまさしく過失でしかありえません)に関してわざわざ謝罪というステップを踏む必要はなかったかもしれない。謝罪されてすっきりするという二度手間の前に、徹底的な寛容という感情のルールがあったかもしれないわけです。しかし現状がそうなっていないのは、おそらく謝罪に対して許しを与えるというルールがこの社会での最適戦略だったということなのでしょう。そして最適戦略というのは、その集団の構成員の民族や宗教などによって大きく変わってくる。例えばインドは多民族国家だったから、他者に対してはかなり保守的な戦略をとっているように思われました。身内と他人の境界線をかなり内側にとっている感じです。そしてそういう戦略的パラメタを把握しておかないと、彼らは何を考えているのかわからない、嫌な人々であるという評価を下してしまいかねない。こういうふうに相手が生きる環境とそこでの最適戦略とを意識しておかねば、たとえ異文化そのものに対していくら寛容であろうと、違う国の人達とうまくやってゆくのは無理なのではないか、というのがなんとなく感じていることです。
 肌の色は違っても同じ人類だ、なんていうけれども、僕はすべての人間の個体は別種のいきものだと考えて生きるほうが便利だと考えています。感情セットも思考の様式もそれぞれです。幾らかの感情や価値観は共通していても、他の幾つかはどうしようもなく異なっていて、その間に橋を渡すには莫大なコストが掛かったりする。例えばこれはムスリムの学生が東大の学食について意見していたことですが、彼らは自分の使った食器が豚肉料理に使用された食器と一緒に洗われることにすら嫌悪を感じると言います。まるで僕らが人糞に対してそう感じるように。そういう部分にどういう態度をとるかということを、もう少し考えておいたほうがいいのかな、と思います。