Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0126

 試験勉強をしています。たいへん。


 人権という枠組みは一種の商品である、と思う。つまり、損得の観念から出てきたものである。市場が世界規模に広がったから、人間の区分はホモ・サピエンスという種族とほぼ同一化しているけれど、かつて世界がもっとばらばらであった時代には、異教徒は人間ではないと言われたこともあった。現在でも、世界中の人々が人間ではないと認める一体のホモ・サピエンスがいたとして、彼は人間ではないということになるんじゃないかと思う。その逆もまたありうる。ところでもちろんヒトには様々な個体がいるから、あるヒトに人権を認めないヒトがいれば、彼に人権を認めないのはドウトクに反する等と言って攻撃するものがあり、あるいはそのヒト自身が自らの権利を掛けて戦いを仕掛けてくるかもわからない。そのへんの利害の対立の均衡関係のうちに今の権利意識が形作られている、と僕は考えている。敵に回すよりも味方にしたほうが都合の良い相手に人間の印を渡すのである。ところでここまで特に断りもなく損得の観念だの都合の良さだの持ちだして来たけれど、これが誰にとっての損得かという問題はあって、時と場合によって王様だったり民衆だったりする。この損得の主体は、社会形態を特徴付ける量であるように見える。言い方を変えると、特定の人々の損得が特定の条件下において社会全体に影響を及ぼすようなルールの存在が、その社会の有り様を規定しているのはないかと思われる。そういう損得の主体が決められて(それはしばしば暴力による)、その上でそれぞれの個人の利害関係がある均衡関係に落ち着く構図である。そうしてみると、人権というのは、個人が力を持ち損得の主体となって策定したルールと、それによる社会の再編成の後に誕生したパッケージであって、そういう社会でしか売れない類のものであるように思う。
 こういうことを考えていたのは、自己責任云々の概念について思うところがあったからなのだけれど、面倒になってきたのでまた今度。