Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0202

「言葉は道具だ世界ではない」「言葉は世界だ道具ではない」僕は前者の可能性を信じています。

 大学にゆく電車の中で眼を閉じているとふと紫色の球体(液体)が落下して平面との接触によってひしゃげ表面張力の踏ん張りが効かなくなったあたりで崩壊し一気に飛沫となってそれから水たまりを作るイメージが浮かんだ。綺麗だった。

 昨夜書いたレポートを提出しに大学へ行きました。こうも続けて無意味な文章を生成しているとそれにもだんだん慣れてきて、つまり良心とかこだわりの心とかが麻痺してしまっているということですが、適当な文面がぽろぽろと指先からまろび出て来るようになります。そうして書いた文章が、あとから読み返してみて何やらそれっぽさとしての強度を持っているのは皮肉なことです。

 昔は批判を受けると頭に血を上らせてただ論戦に勝ちたいがために適当な理屈をひねり出し結果として新しい知見を得る、ということを繰り返していたように思うのだけど、近頃はめっきりそういうことがなくなってしまったというか、自他の「意見」というものに対して過度に反省的になってしまっている感じがあります。そうした精神的負荷に耐えてまで何かやるのが面倒になってしまったのか、ひたすらそういう事態を回避しているような。そしてそういうことを避ける気持ちが、ある側面での自分の発達を阻害している気がするのです。多分、そういう発達を抜きにして賢く平穏に生きることは可能なのですが。こういうことを考えてしまうのは未練を感じているからなのか。しかし何に?