Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 矛盾とは使用法の不明な命題である。

 矛盾という問題は、本質的には、抽象化するという行為に付随する問題なのではなかろうか。数学や論理学もおそらく人間が認識することによる問題を回避しきれてはいない。「言葉の意味とはその使用である」云々。例えば、「"オオカミ"はオオカミである」にはある種の奇妙さがある。前のオオカミはおそらく名前であるかも知れない。それならば意味は通る。けれども「オオカミはオオカミなのか」と聞かれてみて、僕はどう答えればよいか分からないだろう。一方で「"述語である"は述語である」には何やら人を説得する響きがある。だがよくよく考えると、先ほどのオオカミの件と同じ種類の不明瞭さを抱えている。もちろん"述語である"が名前であるとするなら、意味は通る。ここでは"述語である"の使用が定まっているということだ。そしてこの使用法のもとでは「"自分自身には当てはまらない述語"は述語である/ない」と言ってみて特に問題は、つまり矛盾は生じない。だが「自分自身に当てはまらない述語は述語である/ない」などと言い出すと話は変わってくる。ここでは「自分自身に当てはまらない述語」の使用が定まっておらず、故に僕は意味を理解できないのだが、それゆえに矛盾を生ずるのである。ここでの問題は、言葉の使用に関する問題を過度に抽象してしまったことにある。そしてこの問題に対するタイプ理論という解決は、一度捨て去ってしまった「使用」という観点をもう一度取り戻すことにあったように僕は認識している。(ここまでウィトゲンシュタインの受け売り)
 面白いのは、適切な抽象化において作られた体系の中では、何やらうまい具合に事が運ぶことがあるということです。どこまでなら削って良いのか。それとも、我々の脳はある種のルールが成立するような場なのか。人々はいとも簡単に「自然な抽象化」というものをやってみせるけれども、それに関してもう少し明確なルールを設けたほうが良いのではなかろうかということを考えています。ニューラルネットワークを使ってその手の実験がやれないだろうか。

 免許証のために住民票をもらいにゆきました。まだ転出届を出していなかったので、まず転入の手続きをして、それから住民票の発行。こういう手続にはやたらと面倒なものという印象があったのですが、思っていたよりすんなり終わりました。ちょっと拍子抜け。明日は大学生協に行って手続きとかしなきゃですね。そういや生協って明日開いてるんだっけ。