Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0311

 これは大学に入ってはっきり自覚したことなのですが、僕の頭は、体系的にものを学ぶのが苦手です。原因はよくわかりません。おそらくいろんな要因が関わっているのでしょう。努力ができないこと、まとめるのが苦手なこと、正確な記憶が下手なこと、練習を疎かにしがちなこと、文字を通じて概念を把握できないこと、自分の思考にむとんちゃくであること、それからそれらを知らねばならないという動機が薄いこと、分析的思考が出来ないこと、集中力がないこと、極端にマイペースであること、などなど。こうした特性は、多かれ少なかれ多くの人が持っていることでしょうし、平均的な人間と比べて、僕が特別劣っているということはないとも思います。けれどもことにアカデミックな場においては、これらの弱みは総計すれば致命的であり、実際、これまで3年間の大学生活を通して僕が学んだことの程度は、大学のカリキュラムに期待されるものを大きく下回っています。もちろん、学んだことがないわけでありません。自分が興味を惹かれるものたちについてはそれなりのことを知ったと思います。それでも、大学で特に優秀な人達の何分の一にすぎないのは悲しいことですが。そしてそうした興味が大学生活の中で生まれたことを考えれば、僕の大学生活もそんなに悪いものではなかった、と思うのです。
 けれども、これからも、つまり学部を卒業してからも大学生を続けることについては、少々ためらいがあります。自分の頭が研究に向いていなさそうなことがまず一つ。これに関しては、自分の性格を考えると、学部よりはマシかなという気もするので、そこまで大きな問題ではないのですが。それから、知識への興味を失ってしまったこと。こちらが大きな理由です。これは、自分が人間であることへの嫌悪にも近いのだけれど、なんというか、たいていのものが平坦に見えるようになってしまったのです。何度も日記に書いたけれど、人間が知ることのできる範囲は、人間という生き物の性質によっているのではないか、という気持ち。それにどうせ死ぬだという考え。そう、僕は自分では一代限りの生物のつもりなのです。他の人たちのことや、自分のあとに生まれてくる人たちのことを全然考えていない。なにせ彼らは、僕ではないのだ。だから僕には、後世に名を残そうという気持ちが全くありません。それはどうでもいいことです。同時代を生きている人たちには、少しは認められたいとも思いますが、それは自分の精神がそれを喜ぶようにできているからであって、その気持ちをどうにかできれば、それすらどうでもよくなるでしょう。まあ認められていたほうが僕の生存に得であることが多そうだというのは別にありますが。そしてそういう風に考えたとき、僕自身が人類のライブラリになんらかのかたちで寄与しようという気持ちが持てなくなるのです。興味の湧いたことについては、適当に誰かの研究したことを勉強すれば良い。別に僕が頑張る必要というのは全くなくて、誰かに任せておけば、そろそろ現れるであろう人工の知性体たちに任せておけば、自動的に(僕にとっては本当に自動的にという感覚です)たくさんのことが解決したり解決できないことが示されたりするでしょう。僕はそれの概要を適当に読んでふむふむとうなずき、ときどき、とっくの昔に解決された手頃なパズルを弄んで退屈を紛らわしたりする。それで良いのです。別に僕は、僕自身にそんなに大きな能力があるとは思っていない。僕の知能指数から見て、僕より賢い人間は日本に50万人いるのです。世界中では3000万人くらいでしょうか。世の中のことは、そんな彼らに任せておけばいいんじゃないかって思います。環境や熱意に恵まれた人たちが、その中に数%はいるでしょう。そんだけいれば世界は大丈夫です。少なくとも僕が生きている間くらいは、きちんと地球を維持してくれるだろうと思います。
 読み返してみて、よくわからないことを書いているなあと思いました。自分の気持に、理由をつけかねている感じがあります。単純に僕はうつ状態にあって、何もしない理由を捏ねているのかもしれない。でも、いくつかの部分は真実です。社会貢献したいという気持ちが全くないことや、わざわざ僕がものを考える必要がないと思っていることなどは。もっと好奇心に満ちていれば、誰よりも早く、自分の生きてる間に知りたいと思うのだろうか。少なくとも僕は、先の理由により誰かより早く知りたいという気持ちはありません。ただ、死ぬ前に知りたいなと思うことはいくつかあります。自分とはなんぞやというのもその一つです。物心ついた日、つまりただの現象であるはずの脳の活動が僕という意識を支えているとはどういうことかと気になり始めた日から、心の秘密は知りたいと考えてきました。記憶を辿る限り、僕はデカルト的な二元論を信じていたことはおそらくありません。脳と心を分けて考えたことはない。だから、それがいったいどういうことなのか気になりはじめたのだろうと思います。まあ仮に心が脳とは別にあったとしても、その心がどうして僕なのかという話にはなるわけですが。
 僕が今こんな状態にあるのは、心について考えてきたことによるのかもしれません。自分が物理法則に従う世界の一部にすぎないことを僕は疑っていない。僕には、思いつけないことは思いつけないのです。何かが僕に先行している。そして、そいつのことなど知ったことかと考えている。僕は、なにか大きなものの奔流に飲み込まれた一枚の枯葉にすぎない。そしてその流れは、僕を吹き溜まりへと誘い込んだ。そこから自分の力で逃れるすべはありません。なにか外から力がやってくるのを待つ他ない。しかもこの吹き溜まりからはなかなか抜け出せないのです。僕が自分で作り上げ自分に信じこませたとあるお話を、僕から忘れさせてしまわない限り。
 とはいえ、現実問題としては、院に進むほうが良いのかもしれません。この世の中に寄生することを決めた僕だけれど、どういう仕方で寄生するかって問題はある。たぶん、普通に働くのには向かないでしょう。うまく仕事できる気はしないし、たぶん本当に死にたくなるだろうと思う。というか死にたくなってきた。駄目だ駄目だ、その吹き溜まりからは決して外に出られないことが知られているのだ。
 疲れてしまったのでやめます。ほんと、どうやって生きてゆこうかなあ。