Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0313

 昨日ようやくCaffeで学習させたネットワークを利用できるようになりました。学習とテストとに別々のネットワークを作ってやればよかったのです。CaffeはLayer名ごとにblobsを扱っているようで、そのへんの辻褄をきちんと合わせておけば、一度学習させたネットワークを別のネットワークに接げて再度学習させるというようなことも簡単にやれるようです。試しに関数近似とmnistを学習させてその結果を見てみたのですが、きちんと動いているようでした。(下の画像はMnistを学習させた時のものです。きちんと3を3であると判別しています。)f:id:Raprto:20150314030535p:plain
 ここでまでわかってしまえば、結構自由にネットワークの設計と実験ができます。CaffeにおけるDQNの実装はすでにやっている人がいるっぽいのでそれを流用してオセロや将棋なんかをやらせるとか、LSTMを使って足し算をやらせるとか、いろいろ試してみたいことがあります。それから、作曲なんかも。ただまあそういう凝った作業をやらせるためには、用意されているコードをそのまんま使うのでは多分ダメなので、ある程度自力で実装できるようならねばなりません。CaffeはC++で書かれたプログラムをPythonでラップする構成になっているようですが、このラッパーは比較的薄いので踏み込んだことをやらせるにはC++をいじる必要があります。これはいよいよ僕も黒魔術に入門する頃合いなのでしょうか。それから、言語の話とは別にきちんとアルゴリズムについても身につけないとお話にならない感じがあるので、最近話題になっていたアルゴリズムの本でも買って勉強しようと思います。がんばらにゃーにゃ。
 しかしあれですね、昨晩できなかったことが一晩寝てできるようになっているというのは案外心地よいものですね。

 Twitterで言及している人がいたので心の哲学についてちょっと調べていたのですが、あのへんの分野で出てくる概念ってなんのためにそんなの考えているのかわからないというか、区別すべきものを混同しちゃっているように思えるものがたくさんあって気持ち悪いです。ウィトゲンシュタインより後退しているんじゃないの、と感じる。僕の誤解だと信じたいですが。
 意識の機能という話であれば、「志向性」だの「表象」だのいった概念を持ってくるまでもなく、ニューラルネットワークの計算に帰着すると思うのです。もっと言えば、人間の脳自体が意識の実装なのであって、それがきちんと動いているのだから、別にその中身を哲学者が考える必要はない、とも思う。そのへんは脳科学とか機械学習が要素還元的な方法で解明したり解明できないことを示したりするでしょう。それが人間向けの説明である保証はないけれども。だから、心の哲学という分野がやるべきなのは、徹底的に「今ここにいる私」を考えることなのではないか、と思うのですが、どうしてかみんな心一般のことを考えているように見える。「今ここにいる私」が固有のパターンだと信じているのか。もしそうであるのならば、自分とそれ以外の境界をどこに置くのか。そのように心一般の性質を考えることがそうした今ここ私の問題を解決すると信ずるのであれば、むしろ物理学をやって宇宙の仕組みを調べるべきでしょう。量子脳仮説ではないですが、そういう方向性でブラックボックスの階梯をもう一段降りられる可能性はある。勝ち目はそんなにないだろうと僕は思うけれど。
 私とはなにか、この問に答えを出すために何を考えれば良いか、ということを判別することが、僕にとっての哲学であったように思います。それは裏を返せば何を考えなくても良いかということを決定する消去の作業で、それを延々と繰り返した結果、もはや打つ手が何も残っていないというのが今の僕の状況なのでしょう。昔は人工知能を生み出すことが、そうした問題へのヒントになるのではないかと考えてそういう分野を志しもしたのですが、そうやって創りだした人工知性だって僕から見れば他者に過ぎないわけで、そう思うと興味も薄れてゆきました。まあ彼らと哲学の話をすることへの興味は多少残っていますが。今では、考えることそれ自体が、それほど重要なことであるようには思えなくなってしまっています。もはや僕は、僕が僕の心を観測できる唯一の存在であるという一点において支えられている、ような。
 僕は死ぬのが怖いのです。自分が消えてしまうということが恐ろしい。いや、そうではない。本当に恐ろしいのは、自分が死ぬというのがいったいどういう事態なのかまったくわからないことです。それと同じ意味合いで、僕は今生きているということが恐ろしい。今ここにいる僕という青い一瞬のきらめきへの、絶望的な断絶が怖いのです。そしてその恐ろしさを忘れてしまうことが怖い。この恐ろしさと折り合いをつけて生きてゆくことが、果たして僕にできるだろうか。

 ふと思い立って、電車に乗って知らない街で降りてそこを散歩するというのをやってみました。夕方からバイトがあったのであんまり遠くへはいけなかったのですが、けっこう楽しかった。僕には街を見る目がないなと思います。どういうところを見るべきであるのか知らないから、いきあたりばったりの思いつきでものを考えることになる。思考法を知っているだとか、見る目があるっていうのは、その状況において何を考えるべきかというリストを頭の中に整備しておくことなのだと思います。思いつけないことは思いつけないのだから、そうしておくのが便利です。考えてみると、僕はそういうふうに思考法を整理するってことを全然やったことがなかった。この前ねこせんさんや沙汰止みさんと鍋をした際に、ちょっと試験勉強の話題が出たのですが、彼らが自然にそういう方法で問題を解いていたということを聞いてはっとしたのでした。それと比べて、自分はなんといきあたりばったりで生きてきたのだろうって感じです。なるほどねー、だから僕は勉強ができないのね。まあそう納得してみたところでそういう考え方ができるかって言うと別問題なのですが。なにせ僕はそういうことを自然にはやれてこなかったわけですし。まずは「これはこの手の問題だ」ということを判別するフレーミングの機能を脳髄に備え付けねばならないのだけど、やっぱりあんまり向いていない気はするな。ううむ、なにか良いトレーニングは考えられるだろうか。
 そういえばギフテッドの子供を育てている人のブログをたまに読むのですが、そこで海外の記事が紹介されていて、その中で「間を取る」ことの重要性が説かれていました。

Improve frustration tolerance (Lengthen the fuse).
まず一番のキーポイントとして、ギフテッドの子達はフラストレーションに対する耐久力が低いということが挙げられます。故に、なんらかの逆境や刺激に直面したときに即(瞬時に)反応してしまうのです。Stephen Covey 著の The 8th Habit にも書かれていますが、成功する者は刺激と反応のあいだにスペース(間/ま)を置くことができるものです。これは、何かが起こっても(即反応せず)どのように対処するかを考え(=間を置い)てから初めて反応する、ということなのですが、感情や行動のレギュレーションが上手くいかない者は、年齢を問わず、このスペース(すなわち間)の感覚をあまり持ち合わせていません。そこで、まず子ども達がこの『間の感覚』を持てるよう導いていくことが最大の目標だと言えます。自分が今直面している物事と、それに対して反応するまでの間を、上手くとれるようにするのです。この間がとれるようになれば、どのように対処すれば良いかを考える時間も生まれるため、癇癪を起こしてしまったり、不貞腐れて殻に閉じこもってしまう事態を防げるようになります。間が長くとれるようになればなるほど、より建設的に問題を解決できるようになるでしょう。

 ううむという感じです。フラストレーションへの耐久性が著しく低いというのは僕の大きな欠点なのですが、こういう間の感覚ってどう獲得すれば良いのかよくわかりません。フラストレーションに耐えることを優先するとその刺激への応答が完全になくなってしまう。まあこの辺は遅延満足耐性の話に関わってくるのでしょう。最近流行りのDeep Q-Networkの課題としても、遠い報酬に対する最適化の問題は上がっていたと思います。いったいみんなどうやってそういう感覚を手に入れたんだろう?って感じです。せめてDQNよりはやくそういうことができるようになりたいものですが、最近の進歩速度を見ていると追い抜かれそうな気がする。人間の敗北!