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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0405

 いつもと変わらぬ夕暮れである
 明日が何の役にもたたぬような

 今日も今日とて自動車学校。今日も今日とて疲れます。教官によって説明の仕方が微妙に違って混乱したり。単に僕が表現としての際に引きずられているだけで、意味していることはいっしょなのかもだけれど。ううむ。
 教習所のコースを過学習してる感じがあって怖いです。一連の流れとして操作を記憶してしまっているようで、学習の汎化が起こっていない気がします。高校生くらいの頃に発達障害の本を読んで、そこに書かれていた「アスペルガー症候群の人には靴下を逆から履けない人がいる」という記述にほへーとなった記憶があるけど、多分僕の中でも似たようなことが起こっているのでしょう。慎重のあまり運転が紋切り型になってしまっているのが良くない気がする。こういう限定された状況ではそうしたほうがうまくやれることを自分が知っているのも問題です。わざと無茶をして学習用のデータを増やしてやったほうがいいのかもしれない。これは練習なのだし(練習の時ですら失敗をしまいと強迫的に考えてしまうのは僕の悪いところです)。

 ネットワークに接続されていることを前提に設計されているデバイスに対して抱くのと同じ気持ちを自分に対しても感じます。僕はスタンドアロンで機能したい、と思う。小さいころ、食べ物を作る人がいなければ自分はものを食べることが出来ないのだということを教わり、すごく不安になったのを覚えています。自分の生命が他のものに依存しているってことがひどく不安定に感じられたのです。そうして今は、自分の知性が他の人達との関わりの中で最高性能を発揮する仕様になっているらしいことに気持ちの悪さを感じている。なんというか、正しくないと思うのです。ぐらつく足場の上に立っているような居心地の悪さ。どうしたものだろうなあ。
 書きながら、神林長平の「ぼくの、マシン」を思い出しました。最近、自分の気持ちがすでに神林長平によって代弁されていた事に気づいてどきっとする、ということがよくあります。彼の作品を読みあさっていた中学時代には明確にはわからなかったけれど、神林長平作品の主要なテーマとして、僕のような人間と社会との関わりというのがあるのです。例えば、雪風と深井零中尉の共生は、人間社会仕様とはまた別の知性の形態として描かれている。敵は海賊の匋冥も、そういう種類の登場人物です。
 ところで神林は、敵は海賊においては、ラテルやラジェンドラに「自己認識の背景には他者が必要だ」なんてことを言わせていたりもします。深井零や匋冥がある種の理想像である一方で、こちらは人の世になんとか適応しようと頑張る立場の人物として描かれている感じがある。そう考えると先の発言も少し面白いです。外れ者目線の人間理解。

 ええと、何を書いているのかよくわからなくなってきたのでやめにしましょう。明日から大学がはじまるのだ。早起きできるだろうか。