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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0421

 倫理史の講義でデカルトの「我思う故に我あり」に対する同時代人の批判の話を聞いておもしろいなあと思いました。僕らは自分の考えを言葉やイメージなどの感覚できる形式のものを媒介にしてしか知ることが出来ないわけで、だから自分の考えていることを知るというのは、例えば自分の話す音声を聞くとか自分の書いた絵を見るといった行為と本質的に違わない、と思う。それは思考の基盤が物質世界にあるということを意味していて、ホッブズはそのようなことを言ってデカルトを批判していた。一方でデカルトの言うコギトというのはむしろ「今ここにある私」を指していたようで、だから二人の批判のやりとりは実は完全に違う方向を向いている。この「私」のニ義性は結構な混乱のもとだと思うので自分でも一度きちんとまとめておきたいと思うのだけれど、それをやるだけの体力と能力、時間がない。

 例の生きづらさの講義に出ることにしました。僕の先生への反論は完全に異常者のそれだったと思うけれど、あちらは割と面白がってくれてたぽいのでよしとしましょう。そもそも僕は人の眼を気にしないことに決めたのだ。
 「頭が良いのは不幸じゃない?」と言われました。僕は考えすぎることによってしあわせになりたいと思う。

 色々書きたいことはあるのですが心がざわついてうまい具合に言葉が出てきません。厳かな気持ち厳かな気持ち。