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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0506

 某氏の高校時代のブログを久しぶりに読んでみてやっぱ天才的だなあと思いました。軽妙でちょっと斜に構えてるんだけど強く芯の通った独白調の文体は一つの理想である。あと瑞々しい感性!

 ニー仏氏(仏教思想のゼロポイント著者)のnoteを読んでいたらゴールデンウィークが消滅していました。別に名残惜しいということもないですが。

 

 僕は自分の言葉やイメージに落としこむことでしか物事を理解できないし、むしろそういうやり方で自分の枠組み内に知識を再構成してしまえるから、自分の程度を超えた概念の存在をなかば疑問視してきたし、当然理解することもできていなかった。建前としては自分の先をゆく思想の存在を知っていたけれど、身体的な感覚としてわかっていなかったところがあるのだ。つねに真理はあと半歩のところにあるような気がしており、しかしいくら歩めどそこに至ることはなかった。と同時に新しい発見と語彙の獲得があって、それを通じてこれまでの理解を振り返るとまた違った読み方が見えてくることもあった。そうしたことが何度か繰り返されてようやく、自分の先にまだまだ長い道があり、多くの先達がおり、幾許かの成果があがっているらしいということを推論の先に肌で感じるようになってきたのだ。これまでの傲慢さに比べればたいした進歩だと思う。

 物事の読まれ方にはたくさんの階梯があり、そのどれもがゆるやかに連関しつつそれぞれが別個の実感を生じるものだ。一目見て納得できる読み方があり、高度な思考と実践の果てに了知される読み方がある。その間に優劣があるわけでは多分ないけれど、それだけ高度の読まれ方に耐えうるような体系を限られた方法でしか読まないのはもったいない態度だと思うし、なんだか悔しい気持ちもある。知性でもって自分を救いたいと思うならなおさらだ。まあ、今までのことを考えればある程度のところまでは自力で辿り着くだろうという予感はある。だが自力で辿り着くことしかできない現状はなんとかしたいとも思う。今ではそこにいることが分かっている巨人の肩に乗れないというのはなんとももどかしい気分だ。相変わらず僕は学ぶのが下手です。

 今の僕には妄想力にパラメタを全振りしたゲームのキャラクタみたいなところがあります。

 

例えば鬼ごっこをしている子供は、「これは遊びかい?」と訊かれれば、おそらく「遊びだよ」と答えるであろう。つまり、その子は自分のやっていることが「遊び」だと知っているということだが、だからといって、彼はそれを真剣にやらにというわけではない。彼の意識においては「真剣に行われるべき何か」が、鬼ごっことは別の領域に、区分してしまい込まれているわけではないからである。

  はっとさせられる文章。

 

 ある引き出しを入れると別の引き出しが飛び出してくる箪笥があり、そのすべての引き出しを抑えながら力任せに捩じ込んでゆくのだが、ついにその強力な反発に打ち勝ったと思う瞬間に、今までその存在を知らなかった引き出しが飛び出しているのを見る。そんなことを繰り返している。抜け出す方法は今のところみっつ。ひとつ、飛び出した引き出しを取り外してしまうこと。ふたつ、すべての引き出しを取り出してしまって、それぞれを独立の収納として使うこと。みっつ、箪笥を打ち壊してしまうこと。よっつ目があると良いと思う。

 

 手っ取り早く表現のレベルで文章力を鍛えようと思うなら好きな本を覚えてしまうのが良いのではないかなと思いました。自分が手癖として使う表現も、暗唱できるほどに読み込んだ小説の一部だったりすることが多いです。神林長平を電車の中で繰り返し読んだ中学時代みたいに、なにか一冊の本を何度も読み返す生活を取り戻したい。ふと思いついたのだけれど数学者の文章のうまさってこういうところにあるのかもなあ。

 

 今日はとても体調が良いです。そのことを自覚した時にふと頭に浮かんだことなのだけれど、僕はどうやら、調子が悪くなると改善することを考えてみたりもするのですが、調子が良い時にそれを維持しようという発想をこれまでしたことがなかったようなのです。なるほどなあという感覚。