Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

悟りという状態のこと

 自分の情動について理由付けがなされると途端にその情動が薄れてしまうことがある。経験したことのある人は多いと思う。仏教ではこの現象を意図的に引き起こすことによって煩悩を消し去り悟りへと至る道が説かれている。
 情動の自覚と説明付けがその情動を薄れさせるメカニズムについて、それっぽい理屈を思いついたので書き残しておく。これは科学的に検証されたお話ではないので、ただ言語的に説得力をもつというだけの説明に過ぎない。ただし少なくとも自分にとってはそこそこ合点のゆく説明であって、それはそれで重要なことだと思う。
 自他の境界、どこからどこまでが自分であるかという境界は、固定的なものではないと僕は考えている。一般的には感覚される領域が自分の全体ということになっているよう思われるけれども、その領域はわりと容易に変動することが知られているし、脳や内臓など感覚を生じない部位をどう扱うのかという話にもなる。物質的な身体ではなく思考こそが自分なのだと言ってみて、その思考を意識しているその思考はなんなのだ、意識されている思考と同じものなのかと無限退行する。だからここではそもそも私というものが固定的なものとして実在するという考えを拒否したい。つまり自己と世界とを切り分ける境界は一時的に生じた可変的な区分であって、意識はこの宇宙における本質的要素ではなく、ひとつの観念にすぎない、ということである。有機的システムであるわれわれが成長と学習の過程で獲得した観念、それが自己なのだ(注意:「有機的システムであるわれわれ」などという表現をしたが、そういうシステムもまたこの世界に「実在」するものではなく、それ自身によって獲得された観念であるに過ぎない。ここにひとつの循環がある)。ここでの私とは、純粋に言葉である。われわれは、林檎をひとつのゲシュタルトとして統合し「林檎」という名前を与えたのと同じ仕方で、私という言葉を獲得している。
 このように自他の境界線が学習によって得られたものなのであるとすれば、それを変更することも可能であるかも知れない。実際、ゴム製の手を自分の一部だと錯覚することがあるのだ。そして悟りという状態は、これの逆で、いわば自分のすべてはゴム製の手であると学習した状態なのではなかろうかというのが今のところの僕の理解である。それは、人が自己像「私」を形成する仕組みの特殊な運用であると言えるかもしれない。
 自分の情動のプロセスに対して理論的説明がつくことによって、それは"自分の外部"の現象となる。それはすでに"自分"のものではなく、ただ自分によって認識されている自然現象にすぎない。この認識を極限まで推し進めて、自分という観念を徹底的に解体した状況がおそらく悟りなのだ。
 ところで悟りに至った覚者は心を持たないゾンビのように振舞っているのだろうか。たぶんそうではないと思う。ここからは半分妄想の域に入ってくるのだけれど、悟りにおいても情動は生じうる。だがその性質は大きく異なっていて、情動と感覚との区別が消滅しているのではないかと僕は想像している。すなわち悲しみが痛みと同じように原因の明白な外的事象になっているということだ。だいぶ前に悲しみとはシチュエーションに対して感ずる痛みなのではないかということを考えたことがあるけれど、それと同じようなことを考えている。痛みの原因が切り傷にあることを知るように、悲しみの原因を知る。治療法はすでに明白だ。覚者はそのように一切の苦しみへと対処するのではないかと思う。