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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

悟りという状態のこと

哲学

 自分の情動について理由付けがなされると途端にその情動が薄れてしまうということがある。大抵の人は体験したことのある現象だと思う。テーラワーダ仏教ではこの現象を人為的に起こすことによって悟りに至る道が説かれている。なんとなくそれっぽい話ではある。
 けれどもどうしてそういうことが起こるのかということになると、それほど自明ではない。情動の自覚がそれを薄れさせるという因果関係の間には未だ明らかにされていない論理展開があるのだ。そのことについてつらつらと考えていたら、どうやらそれっぽい理屈を思いついたので書き残しておく。もちろんこれはただ言語的に説得力をもつというだけの説明に過ぎず、より定量的な記述の余地は多量に残されているだろうけれども、少なくとも自分にとってそこそこに合点のゆくものだったということが大切だ。それに物足りなさを感じるようになれば、新たに見出された論理の間隙を埋める説明を僕は考えるのことになるのだろうと思う。
 自他の境界、つまりどこまでが自分であるかという境界設定は、本来的なものではないと考えている。一般には感覚を生じる部位が自分の全体とされているよう思われるけれど、その基準は容易に入れ替わることが知られている(ラバーハンド実験など)し、脳などの感覚を生じない部位をどう扱うかという話にもなる。また自覚される精神活動は言語的・イメージ的なものであり、したがって解釈のプロセスが循環している。例えていうなら、ある本の同一性について考えるのに似ている。内容が同じ本は同一であるのか、それとも物質の部分(紙や装丁)が同じでなくてはならないのか、あるいは誰に読まれているかによるのか、などなど。そうした考えの先に心身二元論という素朴な考えがあるのだろうと思うが、僕はそれを拒否したい。つまり、自他との境界は本来的なものではなく、暫定的に与えられている区分なのだということである。
 そうしてみると、自他の区別というのは(処理系としての)我々が成長と学習の過程で獲得した一つの成果であると考えるのは自然だと思う。おそらく、そういう機能があるのだ。私という観念を獲得する機能が。ここでの私とは、純粋に言葉である。我々はりんごという言葉を獲得するのと同じ仕方で私という言葉を獲得している。
 このように自他の境界線が訓練によって得られたものなのであるとすれば、それを変更することも可能であるかも知れない。実際、ゴム製の手を自分の一部だと錯覚することがあるのだ。そして悟りという状態は、これの逆で、いわば自分のすべてはゴム製の手であると学習した状態なのではなかろうかというのが今のところの僕の理解である。それは、私を形成する仕組みの特殊な運用法であると言えるかもしれない。
 自分の情動のプロセスに対して説明がつくことによって、それは"自分の外部"の現象となる。それはすでに"自分"のものではなく、ただ自分によって認識されている自然現象にすぎない。この構図を極限まで推し進め、自分という観念を徹底的に解体した状況がおそらく悟りなのだと思う。
 ところで悟りにおいてはもはや認識は消滅し、覚者はただ心を持たないゾンビのように振舞っているのだろうか。たぶん、そうではないと思う。ここからは半分妄想の域に入ってくるのだけれど、悟りにおいても情動は生じうる。だがその性質は大きく異なっているはずだ。情動と感覚との区別が消滅しているのではないかと僕は予想している。すなわち悲しみが痛みと同じように因果関係の明白な外的事象になっているということだ。だいぶ前に悲しみとはシチュエーションに対して生じる痛みなのではないかということを考えたことがあるけれど、それと同じようなことを考えている。痛みの原因が切り傷にあることを知るように、悲しみの原因を知る。治療法はすでに明白だ。覚者はそのように一切の苦しみへと対処するのではないかと思う。