Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0521

 心と世界ゼミのために駒場へ。電車の中で同じく駒場に向かっていた哲学課程の同期に会い、着くまでの間少し話をしました。彼はデカルトで卒論を書くつもりらしい。彼もやっぱり意識や自他の非対称性に関心を持っていて、そうした問題に対するアプローチの仕方においてデカルトに親近感を覚えているのだとか。それから「我思う故に我あり」というのはやっぱり推論じゃないよね、など。
 僕もそろそろ卒論の内容を考えねばなりません。ウィトゲンシュタインで書きたい気持ちも捨てがたくあるのだけれど、僕の思考は彼に影響を受けすぎていて、客観的に読める論文が書けないのではという気がする。ううむ、迷うな。

 「心と世界」は相変わらずよくわかりません。ただそのわからなさは僕の能力の問題というよりもマクダウェルが読者向けのレトリックとして書いている部分を僕が無駄に生真面目に解釈しようとした結果であるらしく、そういう意味では救いがあった。同時に、本に対する幻滅も。マクダウェルは随所にパフォーマンス的なものを仕込んでいる。それは議論に説得力を持たせるためには必要なことなのかもわからない。けれどそこには、僕がウィトゲンシュタインに見た世界に対するひたむきさはない。哲学は器用にやるものではないと僕は思う。
 マクダウェルが水槽脳仮説を持ちだしてデイビッドソンを批判していて、しかしその批判は批判としてまったく機能していない気がしたから、こんな質問を投げてみた。もし「水槽の脳が現実に触れていない」と言うのなら、少しだけ景色を歪めて見せる眼鏡だって同じ問題を抱えているのではないか。水槽の中の脳も、マッドサイエンティストの機械を中継しているにせよ、因果的には外の世界の影響を受けている。それはいわばものすごく景色を歪める眼鏡ではあるのだが、しかしその歪め方の程度というのは連続的であって、ゆえにもし水槽脳が現実に触れないというのなら、我々だって現実に触れていないことになる。だからそれを斉合主義の批判として用いるのは無意味だと。この発言を先生は割と面白がってくれたようで、そのこと自体は嬉しかったけれど、それに対する回答はすこし残念なものだった。マクダウェルはレトリックとしてこのような物言いをしているのだ、と。やっぱりそうなのか、という気持ちです。先に書いたように、僕はそんなものは哲学ではないと思う。そして現代哲学の風潮がそれに類したものだったら嫌だな、とも。まあ四の五の言わずにまずは一通り学んでみるべきなのですが。

 与えられた枠組みにおいて極限的な(反)例を考えられることはおそらく僕の唯一の才能だと思う。敷衍して、僕はもしかするとセキュリティを破るのが得意だったりするのかもしれないとか考えたけれど、これはもしかしての域を出ない。もう少し勉強する必要があります。

 本質の実在を認めていない以上、僕にとって生きるということは自分の言った冗談で笑い続けているようないわばトートロジカルな状態なのであって、原理的に外から笑いがやってくることはなく、そしていつだって正気に戻ることができるものである。僕はもはやそうした構図を自明のものとして受け入れざるを得ない状況にある。それは絶望であり励みだ。僕はいま概念的分節化以前の広大な荒れ地にあって、そこを開墾し作物を育てんとするひとりの農夫である。何かが収穫できると良いと思う。

 なにやら非常に恥ずかしいことを恥ずかしげもなく書いてしまった感じがあります。自己陶酔的な気持ちはおぞましいですね。しかし創造の営みはそこからしかはじまらないとも思っていて、大切なのはバランスである。精神に掛けた手綱を自在に緩めたり締めたり出来るようにならねばならない。


 夕方からバイト。うまく頭が回らずうにょーんとなりました。つかれた。