Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

生きること

 たくさん眠って心身を回復させるつもりだったのだけれど結局寝付けないでいる。しばらく前に体得した方法を使うとたいていはすんなり意識のスイッチをオフに出来るのだが、今日ばかりはどういうわけかうまくいかないのだ。ふつふつと湧いてくる雑念の喚起する情動が、心以上に身体を揺り動かし、睡眠への移行を妨げている。まだまだ修行が足りていないな、と思う。

 はやく隠居したいというようなことを考える。具体的な隠居プランがあるわけではないし、それに関して調べたこともない。ただ隠居という言葉に付帯する穏やかな空気に憧れているだけだ。たぶん、身も蓋もない言い方をすれば、何不自由ない暮らしがしたいということになるのだろう。いかにも平凡な嗜好である。かつての僕はこの手の思想を軽蔑していた。なんてつまらない人生観だろうと。だが今の僕はもはやそれをつまらないとは思わない。というのも、それと対置されるべきおもしろさというものがどこかあっちの方へ霧散してしまったからだ。

 折角の機会なので、今の自分が生きるということをどのように捉えているのか改めて書き出してみようと思う。気持ちが整理されるかもしれないし、乗り越えるきっかけが掴めるかもわからない。

 現在の僕の世界観は、本質の否定にある。この世のありとあらゆる現象・事物は、人間が見出したものであり、本来的な存在ではないと考えている。もちろん人間だって人間の見出したものということになるから、先の表現には多少の御幣がある。より正確を期すなら、こうなる。世界は一枚の絵であり、森羅万象はそこに描かれた模様である。模様という言葉で僕が意図するのは、それが「~として見る」ことと不可分であるということだ。誰かに見られない限りそれはただの模様でありそれ以上の何かではあり得ない。だが、誰が見るのか。かつて僕はそこに「私」の神聖を見出していた。世界に色彩を与える特異点として、私の本質を救うことができると考えていた。しかし今ではそうは思わない。現象Pを見出す主体Xもまた主体X'に見出されている。そしてX'はX''に、X''はX'''に。そんな構図を素朴に理解する限り、そこに本質的な何かの出てくる余地はない。一般的な認識として、X(n)の全体は同一人物であるけれど、それは畢竟数ある認識のうちの一つに過ぎない。ある時点においてそこに生じる主体とは、結局のところ一瞬前のそれと「ある一つの認識において」ある程度似た模様であり、本質的連続性など持たず、瞬間的なものである。主体と現在とが不可分であることがこのことを如実に示している、と僕は思う。

 世界が一枚の絵として連続しているということは、世界の部分は世界の全体と相互作用するということである。この部分の取り方は様々であって、世界の冪集合には人間だとか林檎だとか我々の言葉では言い表せない微妙なものだとかが含まれている。そうした部分の取り方のうちの特定のものが人類にとっての世界であり、人類によって見出される世界だ。そしてそこにおける人類とは、人類それ自体の認識において特定の仕方で作動する処理系であり、その処理系に己自身が他者として突っ込まれた結果として自己認識らしきものが生じている。このことに疑問があるならば、自分で把握できる自分の思考はすべて、自分の五感で感じ取れる形式をしていることに注意されたい。

 僕が主張したいのは、結局のところすべては概念であるということだ。概念はそれ単体で存在するものではなく、人間が解釈の上にのみ在って、人間に影響する。換言すれば、我々がこうして観測している世界とは、我々自身がとっている状態そのものである、ということになる。ごく自然な唯物論であるけれど、その含意はあまり理解されていないように思う。そこではこの私自身も概念なのだ。というのも、私と私以外とを区別する境界線は、なんら本来的なものではないからである。

 こういうふうに生きることを考えているから、僕はいま体系的に生きようという気がまったくない。何かを成してみたところで、それで喜ぶのは僕ではない未来の何者かなのだ。それ以前の問題として、僕には何もかもが平坦な模様としか見えなくなりつつあり、それは他者や自分も例外ではなく、それゆえそれらに没入しようという欲求も薄いというのがある。生物としての次元で考えてこれはだいぶまずい状態であるのだが、僕の精神の方はといえばこちらのほうが正しいのだと言って聞かない。これこそ人間的態度である、と。つまるところ、人間生物は概念的社会的欲求に駆動されることによって高度な文明を生きているのだけれど、僕はそうした言語的幻想を生物的欲求に連結する機関が停止しつつあるのだ。その原因が、自分の思考能力が「正しく」機能した結果である辺りがいかんともしがたい。

 おそらく生命としての自分は、現状に不安を抱いているのだろう。自分が体系的に生きることを諦めてしまえば、生物体としての僕は飢えや不健康といった状況に陥りうる。それはきっと苦痛であり、生き物は苦痛を避けるようにできている。一方で僕の知性は、そうなってどこが悪い、自分など自然現象にすぎないのだと唱えており、両者の間のコンフリクトが、今の僕の妙に落ち着きのない精神状態を形作っているのだと思う。僕はいったいどうすればよいのだろう。生物的欲求は社会生活の原動力としては弱く、社会的欲求はそもそも消えつつある。絶対量として生きるためのエネルギィが不足しつつあるのだ。ひとまず必要なのは小さなエネルギィで最低限複雑な仕事を成せるようなること。結局、もっと賢くなりたいというところに落ち着くのだな。ここが我が欲求の最後の砦なのかもしれない。