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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0630

哲学

 複雑大規模なライフゲーム。白色の盤面上を法則に従って移り変わる、黒色のドット。それが時を経て組織化し、いつしか自我を主張するようになる。けれど僕から見て彼はただの模様であり、彼が彼自身であると主張する部位と、それを除いた盤面の他の部分との間に質的な違いはない。たとえそれが何らかの動きを見せたところでその動きは(外側から見れば)真の意味で何かが移動しているわけではなく、ただアニメが動いているように見えていることと同じである。しかしそれでも彼は己の連続性を、主観性を、彼だけの青色を主張する。このとき、彼とは盤面の当の模様のことなのだろうか。少なくとも彼の言葉によればそうである。だが僕からすれば盤面それ自体が(そのある部分のみが自己であると考えるような仕方で)自我を持ったと捉えるほうがなんらかの意味でしっくり来る。そしてちょうど同じことが、僕の主観性と世界との間にも言えるだろうと思う。僕の心は、世界そのものなのだろうか?
 こんなことを考える。超越論的な心は世界の隅々まで満ちていて、ときおり自分の姿を鏡で見るのだが、それぞれの鏡は違った仕方で歪んでいるから、どの鏡を使うかによって違う自分を眺めることになる。ここで、それぞれの鏡は僕や他者やその辺の石ころ、木、あるいは我々の直観的なそれとは違う世界の分節の仕方(言うなれば世界の冪全体)と対応している。そういう風にして、世界そのものであるような心が、僕という一つの人格と何らかの意味で接近しているのが、この私なのではないか。こんな空想は少し突飛すぎるだろうか。だが別にそうであっても構わない感じもなんとなくする。
 「私」と<私>は何らかの意味で寄り添っているけれど、両者は同じものではあり得ない。前者は言葉であり、後者はよくわからない超越論的な何かである。「私」はアニメイション的な仕方で連続しており、だからそれは連続性でもなんでもなく、ただ無数の瞬間の集まりであり、しかし全体として再生すれば己の連続性を主張するような瞬間の集まりである。一方の超越論的<私>は何らかの主張をするような人格化は為されていない、ただ<今ここ>を指し示し「私」の認識に<色>を塗る魂の煌きである。それはいったいなんなのだろう、と思う。それはこの世界の法則そのものなのだろうか。

 僕の自由観はカントのそれに結構近いようです。自力で(というには他から影響を受けすぎている気はする)彼のところまでたどり着いた自分を褒めてやるべきなのか、それとも自分の考えがはるか昔に考えられていたことを嘆くべきなのか。ただカントと比べれば現代を生きる僕は自然科学の概念にずっと恵まれており、だから彼の思想をよりわかりやすい仕方で述べたり、間違っている部分を訂正したりすることが僕には出来るんじゃなかろうかとも思います。ちょっと自惚れ過ぎかな。でも卒論はだいたいそんな路線でいくつもりです。カントよりはもうちょい慎重な語り方をしようと思うけれど。この日記の調子では論外。言語の限界はきちんとわきまえて。