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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0719

 鎌倉に住んでいる従兄弟一家に誘われて横浜で映画を見ました。なんのひねりもない単純なエンターテイメントではあったけれど、映像を作るということに関してはハリウッドには多くの才能が集まっていると思う。すさまじいお金が動いているのでしょう(調べたら300億円くらいとか)。潤沢な資金があればなんだってやれるのだな。

 僕の問題というのは、より低レベルな階層の存在が示唆されている時に、高レベル階層で体系を立てたりそれを学んだりすることについて利便性以上の意味を見出せないことにあるのだろう、と思います。加えて、自分の人生を特別なもの(比較対象がないので特別もなにもないのですが)だと思いたい気持ちがあるから、本質的意味を希求する傾向がかなりつよい。また、こういう態度をとることが努力や失敗を避ける言い訳になるというのもあるのでしょう。たぶんこの虚無は脳が計算した局所最適解の一つなのです。だからなおさらたちが悪い。死ねば全て解決するのだという冗談を地で行っている気がする。

 僕らが自然現象に過ぎず主観が世界と相互作用し得ない随伴的なものであるという問題は、僕らが世界に境界線を引くことによって(それは無から有を生み出すのに等しい)、自らの存在するレイヤを無理やり引き上げていることにあって、おそらくもとの階層に戻ってしまえば問題は問題を成立させている基盤ごと消え去ってしまうのです。石ころが実存に悩まないのと同じように。

 言葉を捨てよう。そこが原罪の湧き出る泉なのだ。聖書でも、言葉を話す存在はたいてい罪深いじゃないか。それがパースペクティブと我々自身を癒着させる糊なのだ。ありのままを見なくては。