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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0722

 インターネットでこんな文章に出会いました。Mister God, This is Annaという小説の一部であるようです。

もしもアンナが数学の天才だったら、それはそれで問題はなかったろう――
あれは変わりものなんだよ、でかたづけられていただろうから。
あるいは彼女が音楽の天才だったら、周囲のものは喉をくうくう鳴らして喜んだことだろう。
だが彼女はそのどちらでもなかった。
(…)
たしかにアンナにはある天賦の才があったが、そのうちそれは、なんら異常なものでも、超自然的なものでもないことが明らかになっていった。
物事のごく本質的な意味で、それは神秘的であると同時に単純でもあった。
物事のパターンとか構造、小さな断片が集まってひとつのものに組織されているそのありかた、そういうものを彼女は直観的に把握することができた。
この才能を説明することはできなかったかもしれないが、それがつねに正しく、真に物事の本質に根ざしていることはたしかだった。
蜘蛛の巣のように単純かつ神秘的、巻貝のように素朴、とでも言ったらいいだろうか。
アンナは他人が混乱をしか見いだせないところに、パターンを見ることができた。
そしてこれが彼女の天与の才なのだった。

 天才少女だ。

 レポートを書くために参考文献を読もうと駒場図書館へ行きました。本郷のものはすでに借りられてしまっていたのです。
 図書館周りの空間に限っては、僕は本郷よりも駒場のほうが好きです。整然としていて明るく、それに独りになるのに向いている。あの騒々しさに憎悪を抱くことも多いけれど、心が怜悧に澄んでいるときには、むしろあのざわめきが僕の存在を世界の背景に追いやってくれる感じがして落ち着くのです。僕は知らない人に見られるのが嫌い。
 おすすめされていた本を読んでみたのですが残念ながら期待はずれでした。終始それがどうしたの?という記述ばかりで、何も得られた気がしません。現象学系の書物はこういうのが多いような気がします。僕の方に準備が足りていないというのもあるのだけれど、現象学の中心概念として「事象そのものへ」というのがある以上、現象学的態度それ自体の理論化は可能であっても、現象学実践を理論化するのはそもそも不可能なのだろうと思います。あまりに個別的すぎて、もはやそれは詩と呼ぶほうが正しいようなものになってしまっている。まあ、詩として読むぶんには良いのだろうけれど、それを体系的に理解せよと言われるとちょっとなあと思う。別に感想文で良いなら書くけどさ。