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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0806

 円城塔Gernsback Intersectionを読み返していて、ふと自分はいったい何を読んでいるのだろうと思いました。本を読むということは、「そこになんらかの拘束が存在している」ということを仮想することです。そうでなければ、無意味な文字列に好き勝手な意味を見出すことすら、読書と言わねばならなくなる。もちろんそう言ってならない道理は存在しないのだけれど。
 なんらかの拘束。それは、作者の思想であったり、その文章が伝えることを意図する概念であったりする。僕らの理解はつねに目的と不可分なのだから、行為と目的は同じひとつのものの裏表なのだから、読書もまた、作者の思想に身を浸すとか、その文章を通して知識を得るとか、そういう目的の反映だということができる。そう考えてみて、では円城塔の書くもののように自走する形式じみた文字列を読むってことは、いったいどういう事態として捉えられるのだろう、とふと気になったのでした。彼にそれを書かせることになった公理を発見することだろうか。
 結局、その読書体験は、そこに「意味があるかも知れない」と信じていられる間にのみ生じうる幻想なのかも知れません。そしてこのことは人生のあらゆる側面について類比的でもある。
 円城塔は、(SREの)エコーであることを目指しているのだろうか。彼は、物語を読むということは本来的に、文字の海の中に自分を発見する行為なのだと言い続けているのかもわからない。
 まあこれは僕の感想なんですけど。