Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

喩え話体系(1)

 ──筆者はなんでもないものを、なんでもなく述べることができない。筆者はなんでもないものを、常に何かであるかのように語ってしまう。(谷川俊太郎「なんでもないものの尊厳」)


 下向きに移動するものしか見えないカメラがあって、それが画面の前に固定されているとしよう。画面にはランダム・ウォークする点がたくさん映しだされている。だが、カメラを通してその画面を見たあなたはきっとこんな法則を見出すはずだ。「点は突如出現し下に移動して消える」と。その法則は、そのカメラからしか画面を見ない限り有効ではあるけれど、カメラを通さずに画面を見る人からすればそんな法則は存在しない。点の移動はランダムだ。
 この喩え話に類比的なことが、僕らの認識においても起こっているのではないかという想定が可能だ。例えば時間。時間は"実は"ランダムに流れていて、僕らは未来や過去にてんでばらばらに移動している。けれども僕らの認識は、先のカメラがそうであったように、一方方向への移動しか捉えられない。ゆえに僕らにとっては時間は直線的で一方通行である。そう考えることは可能だ。そしてこのことは時間にかぎらず、我々のあらゆる認識について言うことができる。
 ここでカメラに対応するものを認識の形式と呼ぼう。そして括弧付きの"実の"世界のことを、<世界>と書くことにしよう。<世界>はさっきの画面上の点のように"ランダムウォーク"している。それが認識の形式というカメラを通して見られることによって"下向きの運動"として私達に認識される。そんな構図を考えてみたい。
 勘の良い人はこの時点でカントの哲学を思い浮かべるに違いない。実際、僕がここで書いたこと、これから書くことは、ある意味でカントの体系とそんなに変わらないのではないかと思う。じゃあカントを読めばいいじゃん、と言うのはもっともなのだけれど、僕がここでやりたいことは、カントのものとは別の喩え話を作ることだ。

 僕は、真理を知ることなんてどだい不可能だと思っている。僕らに与えられているカメラは、"下向きの運動"しか捉えられないような制限されたものであって、しかしそのことによって逆説的に「点は下向きに動く」という法則のもとで物事を理解できている。「”本当は”そんな法則なんてないじゃん」と言ってみるのは無意味だ。"本当の"世界、つまり<世界>は僕らには捉えられない。僕らにとって<世界>を捉えるということがそもそも、<世界>から離れることなのだ。もし仮に<世界>そのものに触れようと思うならば、あらゆる感覚を抜きにして世界を感覚する必要があるだろう。そしてそんな表現は明らかにナンセンスだ。
 いわば知性というのは、<世界>を形式に、言い換えるなら「知的に」するものなのだ。知性は世界を理解するのでは決してない。そうではなく、知性と知性によって理解可能な世界は同じ一つのものの裏表なのである。
 だから、ここで僕が考えている体系も、<世界>を形式に押し込んだ後に成立しているがゆえに、真理なんてのではあり得ない。逆に言えば真理はすでにそこに厳然と存在している。神秘は、<世界>が存在することそのものだ。それを形式に押しこむことは真理から遠ざかることになる。
 ゆえにこれはすべてたとえ話として読んでもらいたい。決して真理にたどり着きはしないけれど、真理の方向を指差す言葉の矢印。知的であることは世界から遠ざかることだと言った以上、僕の試みは知性とは逆の向き、世界をどんどん混沌に無意味にしてゆく方向へ進んでゆくことだろう。繰り返すがこれは喩え話であり、その目的は、<世界>が無法則の混沌であることを実感してもらうことにある。この時点でそのことを直感してくれている人間は、この先を読む必要はない。

 前提として、世界は小さな粒で出来ていると仮定しよう。これは仮定であって、いわばこのお話の主要登場人物だ。再三繰り返すが、僕がこれから語るのは喩え話であり、ある意味で説得を試みているのにすぎない。だが単に説得するのでは騙すことと変わらないから、最終的にはこの仮定は取り払われることになる予定だ。ウィトゲンシュタイン風に言うなら、梯子を登ったあとで梯子を落としてしまうつもりである。それが僕にできるかどうかは、今のところまだ分からない。うまくいくと良いと思う。

 さて、それらの小さな粒たちは、相互作用しあっていろいろなものを形作る。人間が見れば「林檎」と呼ぶものや「星」と呼ぶもの、あるいは「台風」とか「核融合」なんかもこの粒たちの共同作業の結果だ。ちなみにこれからは人間の視点から見たものは、その区別が重要な場合は「林檎」のように括弧付きで表記しようと思う。もちろん人間も本当は「人間」と呼ぶべきだ。一方で、認識以前の世界に属するものは<世界>のように表記するつもりだ。今想定している粒は<粒>ということになる。
 まずここで言わねばならないことは、「林檎」や「人間」に対応する<林檎>や<人間>は存在しないということである。つまり<粒>が集まることによって<林檎>ができたりはしないということだ。創発という概念があるが、それはけっきょく概念でしかない。部分にない性質が全体において現れることは決してない。<粒>の集まりは<粒>の集まりを超えないのだ。もちろん<粒>の集まりが「林檎」と呼ばれることはありうる。だが<林檎>になったりはしない。換言すれば、「林檎」の本質なるものは存在しないのだ。あるいはそれが存在するということは二度手間なのだ。なぜならすべての林檎は<粒>の集まりとして説明できてしまうから。これはつまり、世界に輪郭線を認めない、世界から独立した個物というものを認めない立場ということになる。例えば「人間」と「世界」を区切る<境界>は存在しない。ただ<世界>があるのみであり、認識によって「境界」が生まれる。最初の例に戻って考えるなら、「下向きに移動する点」は「存在」するが、<下向きに移動する点>は<存在>しないのである。なにせ画面に映っていたのはランダムに動く点だったのだから。
 こう考えると、様々な物事や概念もすべて「」で囲われたもので、本質的ではないということになる。<粒>によってすべてが形作られることを前提しているのだから当たり前だ。「ねこ」も「木」も「人間」も本質的ではない。「人間」もそうだ。身体や脳の活動は粒の集まりとして記述できるのだから。

 ところで僕が<粒>を世界の材料として選んだのは、現代の人々が慣れ親しんでいる(ような気がする)要素還元主義とか物理主義とかと折り合いが良い(ように僕には思われる)からだ。もちろん素粒子は「素粒子」であって<粒>ではないけれど、そうしたミクロなアプローチは人間知性のある性質によく合致しているがゆえに、強い説得力を持つのではないかと僕は考えた。というのも人間の知性はつねに「何かが実在する」かのように語るからだ。そして実在するものはたいてい分解することが可能であることを僕らは経験的に知っているから、世界には最小の単位があってそれが世界を組み立てていると考えるのが都合が良いのである(本当はもう少し意図するところがあるのだが、それが成功するかどうか不明なのでここでは書かない)。

 準備ができたところで、心の問題について語ろう。問題は<私>のこと、「私」と<私>の関係である。「私」と<私>が一致するようなことがありえるのだろうか。そもそも<私>など存在するのだろうか。

喩え話体系(2) - Redundanzに続く