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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

喩え話体系(2)

喩え話体系(1) - Redundanzの続きです。

 さて、先の文章において僕はほとんどすべての境界、すなわち個物の独立性を否定する立場を取った。それはただの恣意的な区分であり、<境界>ではなく「境界」にすぎないものであると述べた。このことは、世界が<粒>の集まりであると考えれば自然に導かれる結果である。より正確に言うならば、世界が粒の集まりとして"完全に記述できる"と主張することは、世界には境界・本質が存在しないと述べることを含んでいるのであって、だからこれはいわば読者の直観に訴えることを目的としたレトリックである。繰り返すがこれは喩え話であり、真理でもなんでもない。少なくとも、今のところはまだ。

 これから<私>の問題に入ってゆくつもりであるけれど、その前に、準備段階として人間と人間の認識の問題について語ろうと思う。そのためには思考とか言語とかそういうものの特権を排除してやる必要がある。というのも、それが多くの混乱のもとだからだ。すべてを粒の集まりとして説明する立場では、思考にせよ言語にせよ粒の運動の集まりに過ぎない。言うなれば思考は「思考」であり、<思考>ではない。ここでは、「人間が世界を観察する」という構図を捨てねばならない。人間と世界を隔てる境界を否定したのだから、「人間」も「人間が世界を観察する」ことも世界の部分以上のものではない。ただそういう風に粒が並んでいるだけであり、人は真に世界について語っているわけではないのである。喩えて言うなら、人間が思考することは、不純物を核として結晶が析出するようなものなのである。結晶が世界について語っているとはあまり言いたくあるまい。だが、我々が世界について語っていると主張することは、結晶が世界について語っていると述べることと同じなのである。そして、その結晶の規則正しさもまた「規則正しさ」にすぎないのであるから、ゆえに世界に存在するすべての部分は世界について語っていると述べるべきということになる。

 ここで僕が述べたいのは結局次のようになる。世界で起こっていることというのはすべて「起こっていることが起こっている」だけなのであって、それ以上でもそれ以下でもない。そこに林檎があろうと、その林檎を構成していた粒たちがばらばらの状態で散らばっていようと、そこに質的な違いは存在しない。<世界>からすればその二つは等価である。情報は「情報」であり、だから情報が情報であるためには、解釈者が存在する必要がある。そしてその解釈者もまた「解釈者」にすぎないところにある種の循環が存在している。

 人間は解釈者である。世界のある部分を「私」として解釈するような「私」が「私」である。

 繰り返すが、世界とある個人を区別するような<境界>は存在しない。故に、上記の表現はこう言い換えることもできる。「私」とは、<世界>のある部分が「私」であるかのように「解釈」している<世界>そのもののことである。あるいは認識とは、それ自身を認識可能な認識のことである。よくわからない表現であることは自覚している。

 例えとして次のようなものを考えよう。ある記号の列があり、しかしそれはいったいどういう言語で書かれているのか皆目わからない。誰から見てもめちゃくちゃな文字の並びであり、そこから意味を取り出すことはできない。だが実は、そこに書かれているのは、それを記述している言語そのものの解説書なのである。その本自身から見れば、そこに書かれている内容は明らかである。だが外側から見れば、その文字は無意味である。そして人間とはだいたいそのような種類の構造物であるというのが、僕の理解だ。それとも、C言語で書かれたC言語コンパイラ
 もちろんこれらはものの例えで、僕の言いたいことをそのまま伝えているわけではないけれど、何らかのイメージは伝わるのではないかと思われる。「私」の活動に意味を与えるような「私」の活動。もちろんその自己言及は<世界>からすれば無意味な文字列にすぎないけれど、しかし「私」から見れば「私」があるかのように「私」の「世界」が「存在」する。というわけである。

 整理しよう。「人間」は<粒>の集まりである。境界はないから、<人間>があるわけではなく、「人間」から見て「人間」は「人間」なのである。そして「「人間」が「人間」を「人間」として認識する」こともまた、<粒>の集まりとして完全に説明できる。それから「人間」が「自分自身」を「人間」として認識したとき、そこに生じるのが「私」である。そしてそのことも、<粒>の集まりであるに過ぎない。こういう構図を今考えている。

 こうしてみると、人格としての「私」の連続性もまた「連続性」に過ぎないことがわかる。<境界>が存在しないということは、<同一性>もまた存在しないということだからだ。「私」は「一瞬前の私」と「今の私」が「連続している」かのような仕方で「私」を認識しているのにすぎない。かくして「私」は瞬間的な存在である。ある状態を「私」と呼ぶような<粒>の集まりが存在するのみであり、人格として連続した私は「境界」によって区切られた<世界の>の部分であり、全体である。繰り返すが、「私」とは、<世界の>ある「部分」を「私」と呼ぶような<世界>である。だから私についてなんらかの連続性が存在するとすれば<世界>そのものの連続による。それは私たちがそう呼ぶところの「連続」ではない。

 よく取り上げられる哲学的問題として、自分とまったく同じ物質的構成をもった人間がもう一人いるとき、それは自分と同じ意識をもつのだろうかという問がある。SFにおける物質転送の問題と同質の問題である。だが、ここまで述べてきたような見方をするならば、この問題のような想定がそもそも馬鹿げていることがわかるだろう。というのも、「まったく同じ二人」というのが結局は恣意的な解釈だからだ。世界と人間の境界が否定されているのに、すなわち<人間>が否定されているのに、どうして<人間>をコピーすることができようか。そこでコピーされるのは畢竟「人間」にすぎない。もし本気で人間をコピーするのであれば、世界そのものごとコピーする必要がある。そこにおいてはもはや、先の問題は問題にならない。

 ここまでに僕は、「私」がある視点から見た恣意的なもの、いわば観念のようなものにすぎないということを主張してきた。このことは、主観に対応するものとしての他者について考える場合には、それなりに納得のいく議論であろうと思う。自分から見れば、他者は全て機械人形のようなものである。彼らは物理法則に従っている。彼らは「自分」を「自分」と呼ぶような自然現象である。そして私から見れば、彼らと彼らの外部とを分ける境界は一種の幻想であり、彼らと彼らの活動する外部環境は地続き一体のものとして捉えられるものである。そういう理解は割と自然だと思う。そしてその議論は、私自身についても適用することができる、というのもすんなり理解してもらえるだろう。だが、そういう枠組みで世界を捉えたところで、ある種の主観性はどうしても否定しがたく感じられてしまう。すなわち、人格としての私がただの観念であろうと、今ここにある"痛み"とか"赤さ"というものは、因果的な世界とはまた別のレベルで実在するように思われるのである。すなわちそれがどういうものであるかはさておき<私>は存在するのではないか、ということだ。この問題は、我々が一般に想定している物理的世界が客観的なものであるがゆえに、その枠内では説明できない。僕が「素粒子」ではなく<粒>というものをこの喩え話の登場人物として選んだ理由はここにある。いわばこの<粒>はそもそもある種の主観性を帯びていると言いたいわけである。

 疲れたのでこのへんで。

注)だいぶ端折ってしまったので思考とか言語の問題について昔書いたこととかを載せておきます。

 なぜ我々の思考や言語はこれほど見事に世界を記述しているよう見えるのだろうかという問いがある。それに対して、我々はそのように進歩してきたからだと答えることはある意味正しいけれど、しかしそれはそのような問いを発する人々の欲している答えではない。それは事実であって説明ではないと言いたくなる気持ちが存在する。
 現象を理解するとは、その現象を"再現"するために必要十分な関係を抽き出してくることだろうか。だがその再現が現象を再現しているとする根拠はどこにあるのか。現象をある現象と見做すこと自体が、その過程に何らかの再現を含むのではないか。
 つまりこういうことである。例えば、バクテリアの体を調べ、その活動を(十分な精度で)コンピュータの上でシミュレートしたとする。そしてその活動が現実のバクテリアのそれと十分に似通っていれば、我々はバクテリアを理解できたとして良いのではないかと言いたくなる。だがその仮想のバクテリアが現実のバクテリアの再現であることの根拠は、我々がそう判断しているという以上のものではない。ここで言われている理解とは、我々がある現象をある現象であると見做すのに必要な再現精度の下限を明らかにしたことである。
 再現ということを考えれば、僕らの脳の認知活動も現実の再現ではある。光や音やそれ以外の刺激から、周囲の環境を心のなかに再構築している。そしてそれには常に精度的な限界が存在する。このことを敷衍すれば、なぜ我々はこれほどうまく世界を記述できているのかという問いはそもそも同語反復であるのかもしれない。それゆえ本当に問うべきは、何故神はこれほど見事に(我々を含めた)世界を記述できているのかということになるのではないかと思う。そしてそれはもはや答えの用意されているような種類の問ではないように見えるのである。

 思考は行為を内化したものである。ということを素朴に理解するなら、思考が世界について語りうるのは、ちょうど僕らの身体が世界の中で動くことが出来るということと同じ意味においてなのだ、ということを思いつきました。なんと言えばいいのかな、例えば「そこに花がある」という認識と道端に落ちていた石ころを蹴っ飛ばすこととの間には大した違いがないということです。あるいは、思考が物事の輪郭を捉えることは、壺の中の水が壺の形をとることと(喩え話でなく)本来的に同じことである、ということ。もしそうした水の振る舞いと人間の思考とが全然別のものに見えるのだとすれば、それは水と砂利では壺に押し込まれた時の挙動が違ってみえることと同じ現象なのだ、と思います。

 「Pか¬Pかのどちらかである」というのが成り立つのは、単に我々がそういう法則が成り立つような仕方でものを見ているからなのではないか。例えばある形の手をチョキと呼ぶことは、そうでない形の手をチョキと呼ばないことを含んでいる。境界が本質的なものではなく恣意的なものであるということはつまりそういうことなのだ。すなわち境界線は世界を二つに分離する。論理は、真偽はそこに発生する。