Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

中立について

 ポリティカル・コレクトネスという概念について考えていて、ふと「アルジャーノンに花束を」の一節を思い出した。

 私は天才なのか?そうは思わない。とにかくまだ今は。バートがいつも言うように、教育界の婉曲語法を借りれば、私は特殊なのである。――この特殊という用語は授けられたものと奪われたもの(利発と精神遅滞の意味に使われている)という忌まわしいレッテルを避けるために用いられる民主的用語であって、特殊が特定の人間に特定の意味を持つようになれば、彼らはまたその言い方を変えるだろう。つまりこういう考えらしい。それが特定の人間に特定の意味をもたない限りはその表現を用いるべし。特殊とは、スペクトルの両端を言うのであり、したがって私は生涯を通じて特殊であったというわけだ。

 表現の正しさとは、語り直され続けることによって維持されるのだ。なぜなら言葉の意味とはその用法によって定まるのであり、人間とは元来差別的に言葉を使うものであるから。