Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

理解

 我々の(少なくとも日常的な)現象理解は、操作可能性を基礎に置いている。「原因Cによって結果Eが起こる」というモデルが意味するのは、Eを制御するためにはCに干渉すれば良いということだ。もちろん、現象Eを制御する意図を抜きにしてCとEの因果関係を把握することは可能だけれど、しかしそのようなモデルを把握した時点で、Eの操作可能性はそこに伏在している。因果関係という構図そのものが、本来的にそういう性質を含んでいるのだ。ゆえに学問の領域では因果関係と相関関係とをきちんと見分けることが重要になる。相関があるというだけでは、「意図したとおりに」現象を制御することはできない。

 古くからの西洋の枠組みでは、現象は本質の現れとされてきた。あるものがあるものとして存在すること、すなわち事物の「離存性」を説明するためにイデアや形相の概念が発明されて以来、現象には先行する本質が"実在"しそれが現象を現象たらしめるのであるとする認識が西洋文明を長らく支配してきたのである。その姿勢は「現象を支配する法則/条件を探る」という形で自然科学にも受け継がれている。原子論は本質主義の究極の形といえよう。

 ところが、あらゆるものがミクロな方角から原子論的に記述されうるという考えが支配的になってくると、今度はマクロなレベルでの本質実在論が脅かされるようになってくる。林檎の本質とはなにか。遺伝子であるというのがひとつの答えであろう。だが本当にそうだろうか。確かにDNAを書き換えれば林檎の形質発現を制御できるかもしれないが、DNAを畑にまいたところで林檎は生えてこないのである。ある林檎から何か一つを取り除いてしまえば、すでにそれはかつての林檎とは別物になってしまう。だからといって林檎の本質とは林檎それ自体であるなどと言ってしまうと、今度は本質論を持ち出す意義が失われてしまう。本質とは事物の離存性を説明するための概念であったはずだ。それがそれとして存在していることを前提した上で、それをそれ自体の本質とするということは、本質論が導入された経緯と逆転している。本質があるがゆえにそれは離存するというのが本質論のミソだったのだから。

 ここにおいて取りうる道は2つある。ひとつは、古代ギリシャに立ち戻り、現代科学がいまだ扱い得ない形而上学的本質論を再興することである。もう一つは、認識論的な転換を行うことである。すなわち、マクロな現象の性質は、我々の認識によって成立せられているものと考えることである。僕は後者を押している。

 ウィトゲンシュタインは語の意味は家族的類似を作っていると述べた。ある言葉の全ての外延を特徴づけるような共通の内包は存在せず、部分的に共通する特徴によって全体が緩く連関しあっているということである。これは本質の否定そのものだ。そして部分的に共通する特徴を見出すものこそ、我々の認識の能力であると考えたいのである。

 本質非実在の視点に立てば、林檎とはたんに我々が林檎と呼ぶもの一般ということになる。また、「それ」に林檎という名をつけることができるためには、それ以前にすでにそれが「それ」として世界から切りだされて来ている(離存している)必要があるわけだが、これも認識の働きの結果ということになる。輪郭線を持たないのっぺりとした模様としての世界に、認識が境界線を引くのだ。我々の生活世界とは、認識以前の脱分節的カオスな世界、サルトル的に言えば「ぶよぶよした、奇怪な、無秩序の塊」としての世界が、認識によって秩序を措定され構造化されることによって立ち現れてくるものなのである。

 マクロな現象が本質を伴わないのであれば、現象理解とは本質の探求ではありえない。ゆえに理解とは人間にとってのある種の「ツボ」を押さえることである、というのが冒頭において僕が言いたかったことだ。つまり「ある現象がある現象として人間(私)に認識される」条件を把握すること、それが「理解」という言葉の意味であり、その条件こそが操作可能性だということである。

 原因Cにせよ結果Eにせよ、我々の認識があって初めて成立するものなのである。本質非実在論的には、認識の分節化作用を抜きにしてはそれが「それ」としてあるということはありえず、だから原因も結果もひとつの区切り方に過ぎない。因果関係という枠組みは我々の認識と不可分であり、その認識の上で原因Cと結果Eの関係を説明したものなのである。ゆえに因果にも本質はない。

 ある現象を再現するためには、条件を制御せねばならない。そしてそれが再現されたと判断するのも我々の認識である。ゆえに因果関係というものは、どこまでいっても妥協の産物である。たとえ原子論的なレベルで再現したとしても。

 因果関係が妥協の産物であるということは、妥協があっても大きな問題はなかったということでもある。何に対しての問題かといえば、人間の生存であろう。理解というのは結局、問題解決の最初のステップなのであって、問題という現象もまた我々の認識の上にしか成立しないものである以上、それの解決も認識の上で為されれば十分である。ゆえに理解は問題を解決するのに十分な精度を備えておれば良い。また問題を解決するためのものであるから、問題を制御するようなものでなくてはならない。「操作」という言葉を用いたのには、こういう理由がある。

 我々はつねにそれが我々の意志であったと言えるような仕方で行為する。自由意志と呼ばれる概念は、それが自由という言葉の意味に妥当するかどうかはともかくとして、我々に自由の実感を与えるものだ(自由意志のこと参照)。ゆえに人間のあらゆる行為は、なんらかの目的を志向していると”言うことができる”。そして理解もまた、この例に漏れないのである。理解とは、現象を操作する可能性を手にすることなのだ。