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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

チョコレートが好きで、生きるのが嫌い。

 これは僕の中にある他者の言葉です。

 目的を想定しない理解はありえない。僕らは何かをするために何かを理解する。理解には、理解の使用が前提されている。ゆえに、人生の無意味さを理解することもまた。

 生が無意味であることを言葉で語れるか、他者に伝えられるか、ということを考えていて、どうも無理そうだと思った。それはたぶん、チョコレート好きな人をチョコレート嫌いにすることに似ている。あるいは、人の相貌を言葉で説明することに似ている。言語的理由付けを伴わない価値判断を、言語のみを用いて説明したり解体したりすることは出来ない。チョコレートの有害さ(これは喩え話であり、チョコが有害だとは僕は思っていない)をアピールすることによって、人をチョコ嫌いにすることはできるだろう。だがそれは、純粋に論証的な方法ではない。有害さというネガティブな情動に関連付けることによって、チョコに対する嫌悪を形成しただけだ。チョコという概念の再構成を迫っただけだ。言葉はその補助を果たしたに過ぎない。何が言いたいかというと、人生は無意味だといくら理路整然と説いてみせたとして、「私は生きるのが好きだ」と言われてしまえばそれまでだし、それに説得された人は「感情的に」説得されたに過ぎないということだ。「純粋に論証的な方法」などという言葉を使ったけれど、少なくとも僕の知る限りそんなものは存在しない。行為主体の価値体系に依存せず、ただそう主張することそれ自体が意味を持つような言葉というのは、ただそれだけで世界を変質させるような言葉、いわば呪文のような、あたかも真理のような言葉だけだろう。僕はそんな言葉や議論を知らない。僕の知る言葉は、僕を含む誰かに解釈されることによって、誰かの価値体系と紐付けられることによってのみ力を持つ。1+1=2のような文さえそうなのだ。誰にも読まれていない文字はただインクの並びにすぎない。そして人は、ある価値体系を前提とすることなしには、なんら行為することが出来ない。だから、僕が生きることは無意味だというとき、究極的には、それはたんに僕が生きることに意味を置いていないということを述べているだけだということになる。僕がチョコレートが好きだということと大した違いはない。もちろん、チョコレート好きになったきっかけがあるように、人生がどうでも良くなったきっかけはあるかもしれない。そしてそれは言葉によって語りうるような経験かもわからない。だが同じきっかけ・言葉によって生きる希望を持つ人がいるかもしれないし、チョコが嫌いになる人もいるかもしれない。それはその人がどういうふうに生き、どういう価値を組み立ててきたかによるだろう。起こりうることが起こったのにすぎない。

 僕は虚しい気持ちになるとよく「起こりうることが起こったのにすぎない」と考える。僕は自由意志を信じていない。世界は世界だけによって決定されているのではなく、世界は世界と精神によって決定されている、という意味での自由意志は、少なくとも信じていない。世界と精神との間に境界を設定したから自由意志なんて観念が発生したのであって、そんなものはただのトートロジーだと思っている。だがいくら僕がそう説明したところで、「たとえ世界が決定的であっても私は自由意志を実感しているし、それで十分だと思う」と言われてしまえばそれまでだし、それに説得された人は、決定論に対するネガティブなイメージと人生が紐付けられてしまったに過ぎない。神を信じている人は、運命が存在することに神の影を見出して喜ぶ可能性だってある。結局、僕はチョコレートが好きだし、死ぬのが怖いし、生きるのが好きでも嫌いでもないという、単にそれだけのことなのだ。そして、いくら僕がチョコレートが好きだと主張しても、それを聞いた人がチョコ好きになるわけではないように、生の無意味さをいくら語ったところで、人にそれを理解してもらうことは出来ないに違いない。理解させてしまったとすれば、僕はどこかで説得という暴力をふるっていたということになる。 

 ところで、生きることを好きになれば生きることが楽になるのかというと、それは少し違うんじゃないかとも思う。楽しそうに生きている人というのは、人生そのものについてあまり考えていないように見える。そもそも、人生というものを好悪の対象になるようなものとして捉えてしまうこと自体が大いなる誤りだったのではないか、というのが僕の考えるところだ。つまりこういうことだ。あるものを思考判断の対象として扱うことは、それに対する思考判断を下さねばならないという一種の圧力を生じる。つまり僕は、生というものを抽象的観念として対象化してしまったことにより、それを好きか嫌いかでなくてはならないという二値的な地平に立たされてしまった。そんなところなのではないか。分析的抽象的に思考する人々が生きることを憂いがちなのは、生が無意味だと悟るからではなく、生とか意味とかいった抽象観念についての意味付けにおいて困難を感じるからなのではないか、という仮説である。そういう意味で僕には、見えてはいけないものが見えているということになるのだろう。事態を一層ややこしくしているのは、そういうものが見えること自体は嫌ではないということなのだ。例えるならば幻覚を楽しんでいる統合失調症患者。たぶん僕はそんな種類の面倒事になってしまっている。

 ぐだぐだ思うところを書き連ねてみたけれど、読み返してみて、だからどうしたという感じはある。一つここから導ける実践的命題があるとすれば、不適切な抽象化はやめようということだろう。人生を「人生」と一言で括ってしまうから人生が無意味だったり有意味だったりするのだ。そもそも人間が持ちうるもっとも具体的な観念ですら、救いようがないほどに抽象的である。意味付け度外視な抽象化は詩の中だけにとどめておいて、せめて日々の生活においては、適切な語りをしてゆくべきだと僕は考えている。

 とか言ってこれ全部嘘かも。