読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

1110

哲学

 「生きることに意味はない」と主張することは、虫を見て騒ぐ人たちに「その虫は(見た目は悪いが)無害だから取り立てて騒ぐことはない」と言うことに似ている。あるいは、アニメのキャラクタに熱を上げる人たちに「それはただの絵だ」と言うことに似ている。結局それは(僕の場合は)生きることにいまいち意義を感じられないとか、生に熱狂している人たちが見苦しく思えるとかそういう、ひどく個人的な気分の問題になる。

 言葉はモノなのだ、ということを強く感じるようになった。「ねこ」という言葉は〈ねこ〉を意味しているのではない。むしろねこを見てねこだ!と思うのと似たようなことが、「ねこ」という言葉を聞いた場合にも起こっているのだ、と思う。「ねこ」が生きた動物であるなどということを言いたいわけではない。ねこの個体であるところのタマとトラが”何らかの意味で”ゆるやかに関連しているのと同じように、「ねこ」はタマと関連している。つまりこういうことだ。日常言語の中で「ねこ」という言葉を使う代わりに、一匹のねこを指差すこともできるだろう。それは一匹のねこであって、〈ねこ〉という意味そのものではない。だがそれによって会話ができる、ということが本質的なのだ。もちろんそのねこがブサイクであれば、その会話において「ねこは可愛い」と言えないかもしれない。だがそれは、各人の使う単語「ねこ」においてもありうることだろう。誤解してほしくないのだけれど、単語「ねこ」が一匹の猫の代用であるというつもりはまったくない。ただ”ねこの個体を指差すことで会話が出来たのと同じ意味で”「ねこ」を用いて会話ができる、ということが言いたいのである。それはもちろんねこではない。ねこではない何らかのモノである。言葉の実態が音であり紙の上のインクであり液晶のパターンである、ということを忘れてはならない。それはつねに現実の対象である。ねこがそうであるのと同じように。

 もちろんこのようなことが言えるのは、存在論的な地平、すなわちモノをモノとして切り出してくるような地平、ウィト氏の言葉を借りるならば論理空間が確立したあとでのことである。