Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 僕がこのタイミングで「フラニーとズーイ」を読んだことは、おそらく奇跡か何かだったのだと思う。ここ半年くらいの僕はフラニー的神経症の状態にあった。それもかなり重度のやつに。あらゆる物事が、とくに学究的な物事がどれもインチキにしか思えなくなっていた。あんたらはインターネットでチヤホヤされるためだけに大学に通っているのかとか、あるいは仲間だの地位だののために研究に携わっているのかとか、そう言いたくなることが頻繁にあった。きわめつけは学問先輩を崇める学問不良みたいな連中で…。とにかく「人間の集まり」を基礎に置くすべての概念が憎かった。いたるところに人間のエゴを見て、あるいは幻視して、ひたすら気分を暗くしていた。そしてそんなふうにしか人を見れなくなっている自分が最高に嫌だった。僕自身がまさにその種類のエゴにまみれた人間なのだってことを思うと、首をつって死にたい気持ちになった。一人残らず言葉の限り罵倒して、どこかへ消えてしまおうとすら考えていた。誰も居ないところにゆけば、僕の自我は有用性を失って消えてくれるかもしれない。そんなことを夢想した。そんなわけだから、フラニーの言うことは痛いほどによくわかった。少なくともよくわかった気になれた。それでちょっといい気分になって、また自己嫌悪に陥った。誰かが同じようなことを考えていたからってなんだっていうのか。そもそも価値とは。という感じで、一事が万事そういうふうだった。

 そうした独善的潔癖に殉じかけていたフラニーが、いったいどういう経緯で救われるのか、ここには書かないし書けない。僕の陳腐な文体では、そのエッセンスを表現することは出来ないだろうから。だから一箇所だけ引用をしてみたい。僕が本当にはっとさせられたズーイの言葉だ。

 僕の意見を僭越ながら言わせてもらえば、この世界のいやらしさの半分くらいは、自分たちの本物のエゴを用いていない人々によって生み出されているんだ。そのタッパー教授からしてそうだ。君が彼について話すことを聞いている限りでは、彼が使っているのは、彼のエゴだと君が考えているものは、実はエゴなんかでは全然ないという方に、僕はすべてを賭けてもいい。それは違ったものなんだ。もっとずっと汚らしく、もっと浅いところにある代物だ。(p.241)

 ところで、僕がズーイに完全に説得されたかというと、正直な話、そんなことは全然ない。結局ズーイが語ったのはフラニー向けのレトリックで、もしかするとサリンジャーのセルフ・カウンセリングで、僕の問題の独自性はいまだ障壁として存在する。独善的な虚無に華やかな殉教を遂げたい気持ちは残っている。それでもまあ、月並みな言葉ではあるけれど、元気をもらえたのだ。僕はまるっきり孤独ではないと。(僕の心は嘘つけ!と叫んでいるが無視する)

 感想じみたものを書いてしまったけれど、自分のことは脇において、上手に感想を書く人たちが嫌いだ(今日は嫌いなものを暴露するデーだ)。いや、彼ら全員が嫌いなのではなくて、つまり自分の中に芸術鑑賞チェックシートを持っていて、それにマルバツつけながら言葉にしていっているような手合が苦手なのだ。いや確かにそれは避けようがないし、批評というものをするためにはそれが重要だったりするんだろう。僕が言いたいのは、作品と格闘しようという気概がなければ、そいつは学習の収束した感想出力ニューラルネットにすぎないのではということで、いやそれ自体は別にいいんだが、ええと。こういうのが良くないのだ、やめよう。

 夕方、ソーノの定期演奏会を聞きに杉並公会堂へ行った。演奏は文句無しに最高だったのだけれど、その少し前に喫茶店で耳にした最悪な会話の余韻が残っていて、万全な精神状態で聞けなかったのが残念だった。どこか温かいところでフラニーを再読しようと立ち寄ったのだが、それが失敗だった。

 どうやら芝居をやっているらしい大学生の男が、同じく芝居関係の仕事をしているらしい女性に、自分の進路について相談をしていた。自分は芝居で食って行きたいとぼんやり思っているのだが、なかなか本気になれなくて困っている、云々。で、相談相手の女性というのが、少し自分の仕事ぶりに自信が出てきたのか、後輩に厳しく当たることに悦を覚えるタイプの人間で、しかも社会的快感を芸術的喜びと勘違いしていそうな人物だった。「芝居はコミュニケーションだから」とか「努力が足りない」とか「あなたは人と真剣に向き合ってこなかったように見える」など。ああ!対する男子大学生は、まあいわば僕に似た「自分がなにをしたいのかわからない」タイプの人間で、たしかに周りから見れば甘えた風に見えるだろうし、本気じゃないようにも見える。でも彼の持っている感覚・焦燥はなんとなくわかる気がするのだ(もちろん僕の思い違いということもあるし、そうだったら本当に滑稽だ)。たぶん彼は、芝居のある特定の何かが好きなんだろうと思う。お芝居そのものではなくて。それゆえお芝居全体(あるいは他のすべての物事)に対して本気になることが出来ずに、自分を責めている、そんな印象を僕は受けた。そしてそういう、自分の欲望が社会的分類にぴっちり収まらないことに起因するやりづらさを、そういう気持ちが全くわからない人たちに相談するのはどう考えても最悪だ。ただ自信を失うだけだろう、と思う。彼に幸あれ。冗談ではなく。

 社会一般で用いられているカテゴリを内面化出来ない問題について時々考える。数年前に僕は、分類というフェンスに突っ込んで、興味関心をトコロテンみたいにばらばらにされている気分だ、というようなことを書いていたと思う。今だってそんな気持ちだ。4年前、高校の友人達が一浪した僕の合格を祝う会を催してくれた。そこである一人が「君の興味に応えてくれるところは大学にはない」と言っていたのを覚えている。彼の予言は正しかった。今の僕は一本のトコロテンである。残りの部分が何処へ行ったのか、もはやよくわからない。

 あとそうだ、公正さについてちょっと考えていたのだった。人が自分を能力主体として認識する限り、社会福祉による能力差是正はある人々にとっては不公平に映るだろう。そういうわけで、真の平等は、人がただ意志の主体としてのみ自分を規定するようなって初めて達成されるのではないか。そしてそうなった暁には、あらゆる能力は余興に費やされることになる。そんな未来。

 なんだか柄にもなく(ほんとか?)饒舌に語ってしまった感じがする。しかも英文学翻訳体じみた口調で。たぶん明日になれば正気に返って、こんな文章を書いた歴史を抹消したくなるに違いない。というか今すでになりかけている。だがまあ、生きるってそういうことなのかもねえ、とか。ではでは。