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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

ウィトゲンシュタインの数学観について

 結局諸事情あって卒論は間に合わなかったのですが、締め切り一週間前くらいから書き始めた卒論もどきは一応出来上がっていて(字数は足りないけれども(というか原典にあたっていないの致命的(あとにゆくほど雑になる(言い訳です))))、お蔵入りにしてしまうのもなんだかもったいないので、ここに公開します。来年はもうちょっとまともなものが書けるといいですね……。うぇー。

 

1.はじめに

 ウィトゲンシュタインの数学観についてと銘打ったけれども、本論文は必ずしも彼の数学の哲学のみについて語ることを目的としているのではない。むしろ、彼の数学観の考察を通して、ウィトゲンシュタイン哲学、とくに後期哲学の思想の本質をわずかでも明らかにすることを目指した。ウィトゲンシュタインが数学への興味から哲学の道へと進んでいったことはよく知られた事実である。「論理哲学論考」に代表される前期哲学はフレーゲ、ラッセルらの論理主義とその問題(ラッセルのパラドックス)との関わりの中で育まれたものだし、論考執筆以降沈黙を保っていたウィトゲンシュタインが再び哲学の世界へ戻ってゆくきっかけとなったのはブラウワーによる直観主義数学の解説であった。その一方で、彼の数学の哲学は、彼の言語哲学がそうであるほどには大きな影響力を持っていないように見える。それは彼の後期哲学の集大成とも言える「哲学探究」において、ウィトゲンシュタインがもはや数学をひとつの独立した領域ではなく、言語活動の特殊な事例とみなしていることに関係しているかもしれない。また彼が哲学という営みを、問題を解決することとはみなしていなかったこととも関連しているだろう。ウィトゲンシュタインが生きたのは、数学をいかに基礎付けるかという点において、論理主義、形式主義直観主義といった様々な学派がしのぎを削り、そしてそれぞれの困難に直面していた時代であった。これら数学基礎論の最終的な目的は、数学の正当化の問題に関わっている。古来より確実な知の雛形とみなされてきた数学ではあるけれども、その確実性はなにによって担保されているのか。そもそも数学はなんらかの確実性を実際に秘めているのか。そんな情勢の中にあったからこそ、論考においてあらゆる哲学的問題の解決を宣言したウィトゲンシュタインの哲学への復帰は、数学の哲学における混迷に新たな一石を投じるものとして期待されたのである。ところが哲学復帰後のウィトゲンシュタインは、周囲の期待とは正反対の道に進んだ。彼にとって数学はもはや確実な知でもなんらかの基礎づけが可能な体系でもなく、むしろ言語的実践のうちに現れる幻影のようなものなのであって、哲学的問題を生じる最たる例のひとつだったのである。そこでは数学はひとつのゲームであるとされた。この思想はあらゆる言語活動をゲームとみなす言語ゲームの思想へとつながってゆく。このゲームという捉えられ方のもとでウィトゲンシュタインが試みたことは、数学や言語といった活動が、形而上学的本質に裏打ちされたものではなく、ただわれわれがそのように実践するという意味において「人間的なもの」に過ぎないことを明らかにすることであった。すなわち、われわれが本質とか必然性とが呼んできたものは、われわれの採用した表現様式(文法)によってはじめて現れてくるのだということである。「本質は文法の中で述べられている」*1。ところで、ウィトゲンシュタイン哲学探究のなかで、しばしば単純な言語(言語ゲーム)を考えることによって論点を明晰化している。この点において、数学は言語のある側面のきわめて特徴的な例となっているとみなすことができよう。また数学が哲学的問題の悪しき源泉であるということは、裏を返せば、数学がいかにして人を哲学的困難へと導くかを見て取ることにより、そうした困難から哲学を救い出すことができるかもしれない。そしてウィトゲンシュタインはまさにそのような過程において言語活動一般が胚胎している哲学的困惑発生のパターンを明らかにしたのであり、したがって、その道筋をたどること、すなわちウィトゲンシュタインの数学の哲学を検討することは、彼の哲学のエッセンスを理解する大きな指標となるに違いないと私は考えたのである。

 

2.数学的実在論と規約主義

 本当の三角形をわれわれは見たことがない。それは大きさのない点、太さのない直線から構成された領域であって、物理的世界にあるかぎり、そのようなものを描くことは不可能である。一般にペンで書かれた線には太さがあるし、また現在ひろく信じられている原子論的描像を前提するならば、連続性を物質的に構成することすら不可能である。いくらなめらかに見える線であっても、十分に拡大してみれば、それが粒子によって構成された近似的に直線に見える直線ではないものであることが明らかになる。そもそも相対論においてはこの宇宙はユークリッド空間ではない。ゆえに、現実的に三角形を構成してみせることはわれわれにはできそうもない。だが一方でわれわれは三角形の満たす諸性質について論じることができる。三角形の内角の和が180度であることや、直角三角形においてピタゴラスの定理が成り立つことを、われわれは証明してみせることが可能である。ここでわれわれが三角形であるとみなす物理的図形と、数学者が三角形に関する諸定理を考察する場合の三角形の観念との間には、越えがたいギャップがあるように思われる。

 われわれの生活の舞台であるこの物理的世界と数学的営みの間に広がる間隙を埋める一つの立場が数学的プラトニズムである。これは一種の実在論であって、数学的対象がわれわれの心と独立に、いわばイデア的に存在し、われわれが図示する三角形やわれわれが計算に使う数というものは、イデア界に内包される数学的実在の影なのだという描像である。この立場においては、数学的対象や定理はわれわれがそれを扱う以前からこの世界に無時間的に存在しており、数学者はそれを発見するのだということになる。数学とは客観的事実であり、数学者は計算によってそれを認知し記述するのである。また論理の実在性を前提とし、論理学の一部として数学を基礎づける立場もあり、これは論理主義と呼ばれる。いずれにせよこれらの考えは数学的実在論としてまとめることができるだろう。世界にはなんらかの構造が客観的に存在し、数学的対象や必然性の根拠をそこに求めるという主張である。

 数学的実在論が客観的で絶対的な真理を探求するものとしての数学を主張する一方で、数学とはわれわれの取り決めにすぎないとする立場(=規約主義)も存在する。規約主義者たちは、数学的実在論者の主張する、客観的で絶対的で、一目で認知できる必然性という観念に対抗する。その動機としてあるのは、哲学的懐疑の精神であろうと私は思う。彼らは数学的実在という観念に対して、それを正当化しうる根拠を要求する。彼らにとっては、数学的実在論によって数学的営みを説明しうるというだけでは十分ではない。というのも、いかにもっともらしい説明に対しても、畢竟それは説明にすぎないということが原理的には可能だからである。また、かつては必然的事実だと思われていた理論が、新たな思考様式の誕生によってしばしば相対化されてきたという歴史的事実がある。数学の妥当性を数学的実在によって基礎付けることは、神による天地創造を信ずることによって生命の存在を説明することと類比的であり、創造説が進化論の出現によって必然的立場を追われ、数ある説明のうちのひとつに堕したように、数学的実在論の語る必然性も同じ道をたどるのではないかと考えることはつねに可能である。規約主義者にとっては、数学的実在論は疑いうるがゆえに信ずるに足りない考えなのだといえよう。

 

3.規則のパラドックス

 こうした懐疑的精神の持ち主という点では、ウィトゲンシュタインは規約主義者に近しいところがあり、彼もまた数学的実在という観念をたびたび批判している。だがそれは、ウィトゲンシュタインが数学をたんなる規約の集まりと見なしていたということを意味しない。というのも数学の基礎を規約に求めるだけでは、基礎以外の部分にあらわれる客観的構造の影を追放できないからである。彼の立場をひとことでまとめるならば、数学は規約ではなく、規約の実践であるということになるだろう。ここでは、規則に従うという営みにおいて発生するとある逆説の分析を通して、実践という語でウィトゲンシュタインの意図している内容を明らかにすることを試みる。

 数学を基礎付けるものが恣意的な規約であったとしても、そのことは、それらの規約から他の帰結を導く過程において現れる必然性を否定するものではないように思われる。たとえば、掛け算の規則が恣意的であったとしても、その規則を用いて計算した結果は、規則に従うという営みの必然的結果であったように見える。われわれが一般に信じていることによれば、これまでに25×25という掛け算を行ったことがない人物であっても、自然数の概念と四則演算の規則をわれわれと同じように理解していれば、625という答えを得ることができる。そしてこのことはわれわれの日常生活においてはまったく正しい。それゆえにわれわれは次のような考えに誘われる。すなわち、ある規則が採用された時点で、その規則が導きうるすべての結果はそこにすでに無時間的に内包されているのではないか、という考えである。こうした、規則の把握という行為が、その規則自体の恣意性を除けば、無時間的で客観的な必然性を含んでいるという考えは、ある意味では数学的実在論のひとつのバリエーションにほかならない。

 規則に予め含まれた必然性という考えを批判するために、ウィトゲンシュタインはひとが規則を把握するという状況に伏在するパラドックスを指摘する。

「われわれのパラドックスは、ある規則がいかなる行動の仕方も決定できないであろうということ、なぜなら、どのような行動のしかたもその規則と一致させることができるから、というものであった」*2

 このパラドックスの内容を説明するために、ひとつの例をとって考えよう。「2,4,6,8,□、12…という数列において□に入る数は何か」という問題が与えられた場合、一般にはその正解は10であるとされる。この数列はa_n=2nという規則から作られており、その第5項なのだから2×5を計算して10というわけである。だが多少の数学的知識と哲学的精神をもってこの数列を眺めるなら、この数列の生成規則として妥当する規則は、a_n=2n以外にも無数に存在することがわかる。例えば、この数列を、

 a_n=(n-1)(n-2)(n-3)(n-4)(n-6)+2n

の一部と解釈すれば、□=-14である。さらに、

 a_n=(n-1)(n-2)(n-3)(n-4)(n-6)(-1/24X+10/24)+2n

と定義すれば、任意のXを答えにできる。したがって、もし仮にこの問題の出題者が□に妥当する唯一の解を回答者にせまるにしても、それに妥当する唯一の答えは「そのようなただ一つの解は存在しない」ということになるだろう。また、ウィトゲンシュタイン自身は次のような例を挙げている。教師(われわれ)が、すでに自然数列を書き出すことに習熟している生徒に、もう一つ別の数列を書き出すことを教え、たとえば「+n」という形の命令に対しては、

 0,n,2n,3n,……

という形の数列を書き出すようにさせる。ここで「+1」という命令を与えれば自然数列が、「+2」という命令を与えれば偶数列が得られるであろう。さて、われわれが練習し、1000までの数字においては生徒と教師の理解が一致したとしよう。

 いま、生徒に1000以上のある数列(たとえば「+2」)を書き続けさせる、――すると、かれは1000,1004,1008,1012と書く。

 われわれはかれに言う、「よく見てごらん、何をやっているんだ!」と。――かれにはわれわれが理解できない。われわれは言う、「つまり、きみは2を足していかなきゃいけなかったんだ。よく見てごらん、どこからこの数列をはじめたのか!」――かれは答える、「ええ!でもこれでいいんじゃないのですか。ぼくはこうしろと言われたように思ったんです。」*3

 これら例において重要なのは「有限個の事例からそれに妥当する唯一つの規則を読み取ることは不可能である」(引用)ということである。このことはまったく奇妙なことに思われるかもしれない。われわれから見れば、生徒はきわめておかしなことをやっているように見える。だが、教師と生徒のどちらかが正しく、どちらかが間違って規則を把握している、と言うことは、論理的にはできない。これは「同じように」するという語の適用に結びついている。

 誰かが2x+1なる数列を書き出しながら、数列1,3,5,7,……とたどっていく、と仮定せよ。かれは自問する、「わたくしはずっと同じことをしているのか、それともそのつど何か違ったことをしているのか」と。

 ある1日から翌日にかけて「あしたきみを訪問する」と約束するひとは――毎日同じことを言っているのか、それとも毎日何かほかのことを言っているのか。*4

 なにを「同じである」とみなすかは、アプリオリに定まっているわけではない、ということである。したがって、生徒が「+2」という命令を、「1000までは常に2を、2000までは4を、3000までは6を、というふうに加えていけ」という命令をわれわれが理解するように理解している、ということもありうるのである。

 このパラドックスが本質的に重要なのは、われわれはあらゆる規則を有限個の例において習ったことと関係している。たとえば、われわれが自然数列を学ぶさいに、すべての自然数を見せられたと言うことはありえない。このことを明らかにするために、掛け算の筆算を行う場合を考えよう。ここで必要となるのは、九九の規則、くりあがりの規則、足し算の規則、さらには自然数を0,1,2,3,……と数え上げる規則、などであろう。掛け算の要素をこのように分解するならば、たとえば25×25=625がいまだ誰も行ったことのない計算であっても、筆算のそれぞれの部分においては、なにも新しいことは行われていないと言いたくなるかもしれない。九九の規則や一桁の数の足し算はすべて表に書くことができるため、すでにすべての要素は決定されており、ゆえに自然数を無限に数える場合において現れるような非決定性は現れないに違いないと考えたくなるかもしれない。だが先に述べたように、パラドックスの本質は、何をもって同じとみなすかに関わる恣意性、言い換えれば、新しい場面において規則を適用することにまつわる恣意性なのである。たとえ九九の規則がすべて決定されているにせよ、それは結局、九九という場面においてのみ決定されているに過ぎない。われわれが九九を新しい計算(たとえば25×25)において使用するとき、それが九九が単独で用いられる場合と同じように使用されているかどうかを決定する基準は存在しないのである。注意しておかねばならないのは、ここで同一性の基準として直観を持ちだしても無意味だということである。ウィトゲンシュタインによれば、規則を適用する各ステップにおいて行われているのは、直観ではなくむしろ決断とでもいうべきことなのだが、このことの意味は後ほど明らかになる予定である。

4.規則に従うということ

 さて、以上の議論によって、規則に伴う必然性という幻想は解体されたように思われる。すなわち、客観的で無時間的な実在的構造としての必然性の概念は、もはや意味を失っている。「ある規則はいかなる行動の仕方も決定できない、なぜなら、どのような行動のしかたもその規則と一致させることができる」ことが明らかになったのだから。だが、これだけではおそらく十分ではない。というのも、必然性が解体されてしまったのにもかかわらず、現実的実践の場においてわれわれの規則の使用が一致するという事実があるからである。必然的ではない営みがなぜ必然的に思われるのか。ここに残されている奇妙さが(もし今なおこのことに奇妙さを感じられるとすればだが)、パラドックスパラドックスたる所以である。

 私の見立てでは、ウィトゲンシュタインは、さらに懐疑を推し進めることによって、このパラドックスを解消している。このことを説明するためには、規則のパラドックスを再度吟味する必要があるだろう。このパラドックスが成立する背景には、ある誤解が存在するとウィトゲンシュタインは指摘する。それは、「規則に従うそれぞれの行動は解釈である」という考えである。

 ここでの「解釈」という語の意味を明らかにするためには、ウィトゲンシュタインが意味という語をどのように考えていたかを考察することが重要であると思われる。ウィトゲンシュタインは繰り返し述べている。「語の意味とは、その使用である」。中・後期ウィトゲンシュタイン哲学を貫くこの思想は、語の意味にまつわるひとつの誤解と決定的に結びついている。それは、意味というものをある神秘的な心的構造とみなす一般的な傾向である。ウィトゲンシュタインはしばしば機械のアナロジーを用いてこのことを説明している。

 活動の仕方のシンボルとしての器械。器械は――とまず最初に言っておいてよいであろうが――その活動のしかたをすでにみずからのうちに備えているように見える。これはどういうことだろうか。――われわれが器械を認知する際、それ以外のすべて、すなわち器械の行うであろう諸々の運動が、すでに完全に決定されているように見える。*5

 語の意味を理解するという場合において、われわれはこのように心的器械としての意味というイメージに引き摺られがちである。すなわち、われわれは語を理解するとき、その意味を全体として一挙に把握しており、その語がどのような仕方で用いられるかといった適用の仕方もすべてその時点で完全に決定されているのだ、という描像を抱きがちなのである。そして「規則に従うそれぞれの行動は解釈である」という誤解における解釈とは、まさにこのような描像において規則を理解するということであった。そしてそれこそが、パラドックスのみなもとなのである。ウィトゲンシュタインによれば、われわれは、規則を把握したというとき、様々なありうる解釈からひとつの解釈を選んでいる、というわけではない。そのような意味での解釈とは、解釈の時点においてその規則が導きうるすべての結果をうちに含んでいるかのような解釈であり、それこそがウィトゲンシュタインが批判したかったものなのだから。たとえば先の教師と生徒の例で言うならば、われわれには、教師が命令を与えたときにはすでに生徒が1000の次には1002を書くべきであることを知っていた、と言いたくなる傾向が存在する。すなわち、われわれが生徒にたいして意図していた規則は、われわれの思考のうちにその全体をともなってすでに準備されていたと言いたくなるのである。しかしそのような考えはウィトゲンシュタインによれば誤りであり、「知っている」とか「思っている」などの文法によって迷わされているのに過ぎない。

「あなたのいう「わたくしはその時すでに……であることを知っていた」というのは、「わたくしがその時、かれは1000の次にどのような数を書くべきなのか、と尋ねられたとしたら、わたしは〈1002〉と答えただろう」といったことなのである」*6

 私はここにきわめて高度な哲学的転回があったと考える。それは、実在や本質という観念をわれわれの表現形式(文法)に帰着させるというアイディアであった。

5.本質と文法、ゲーム

 語や規則が、そのすべての意味や適用規則をあらかじめ含んだ形でわれわれに理解されるのではないとすれば、われわれはなぜ言葉や規則を使用することができるのか、そしてその使用がつねに一致するように思われるのはなぜかという疑念が生じる。この疑念こそが、われわれが、先に述べた完全なる器械のアナロジー、すなわちその動作の可能性すべてがあらかじめ含まれた器械として語や規則を理解しようとする傾向を生み出しており、パラドックスの源泉であると述べてきた。

 このパラドックスに対するウィトゲンシュタインの回答は、「〈規則に従う〉ということは一つの実践である」というものである。ここにおける「実践」の意味を理解するためには、後期ウィトゲンシュタイン哲学を貫く根本的思想を検討する必要があるように思われる。それは彼が「文法」と呼ぶ思想であり、哲学者たちがもてあそんできた形而上学的本質や必然性といった観念は、それを記述する表現形式と不可分であるという考えであった。

 哲学は、いかなるしかたにせよ、言語の実際の慣用に抵触してはならない。それゆえ、哲学は、最終的には、言語の慣用を記述できるだけである。

 なぜなら、哲学はそれを基礎付けることもできないのだから。

 それはすべてのものを、そのあるがままにしておく。

 それは数学をも、そのあるがままにしておくのであり、いかなる数学的発見も哲学を前進させることができない。「数学的論理学の主要問題」は、われわれにとっては、その他の問題と同じく、数学の一問題である。*7

 

 ウィトゲンシュタインが哲学という営みを一貫して治療と捉えていたということがしばしば指摘されている。

 哲学におけるあなたの目的は何か。――ハエにハエとり壺からの出口を示してやること。*8

 

 彼にとっては哲学的問題とは、哲学者が言語を日常的な意味とは別のしかたで使用するさいにのみあらわれるナンセンスな命題であり、哲学的問題の解決とは、それがじつは問題ではないことを見て取ることによって解決されるものであった。

哲学的に困惑している上の人は、或る語が使われる仕方の中にひとつの法則を見つけ、その法則をすべてに一貫して当てはめようとして、矛盾する結果に終わる事例にぶつかるのだ。*9

哲学、我々がこの語を使う場合の意味での哲学とは、表現のかたちが我々に及ぼす幻惑に対する闘いである。*10

 

 われわれがこのような幻惑に誘われる背景あるものは、言語理解が、なんらかの形而上学的実在に一致せねばならないという思考の傾向であると考えることができるかもしれない。先に挙げた完全なる器械としての意味という描像も、この傾向に関連している。たとえばわれわれが「赤さ」という概念を扱いうるのは、赤色の本質なるものが存在していて、われわれはそれを直観することができるからだという説明がありうる。これは明らかに、先の三角形の問題に類比的である。形而上学的実在という代わりに、われわれはたんに語を定義するのだと言ってみてもその表現の意味する本質は揺らがない。というのも、名付けたり定義したりといった営みが成立する前提として、それがそれとして世界から切り出されてくる必要があるよう思われるからである。言い換えれば、われわれがあるものとあるものとして認識するためには、あるものとそれ以外とを分離する境界線の実在を認めねばならないと考えたくなる。あるいは、定義によってそうした境界線が必然的に発生するのでなくてはならないと。この論法が説得力を持つのは、これまでに繰り返し述べてきたとおり、概念の理解が意味と適用とを完全な形で無時間的に含んでいるという誤解に基づいている。これら実在や定義に関わる境界としての必然性は、規則のパラドックスによって否定された規則の必然性という考えと同様にして否定されるものであるというのが後期ウィトゲンシュタイン哲学の基本線であると私は考える。

 形而上学的実在や必然性という考えを基礎づける、存在論的境界線という考えを、ここでは「本質」という語で呼んでも良いであろう。いまや本質概念は、規則のパラドックスという懐疑によって、完全にではないにせよ追放された。そして本質概念にかわってウィトゲンシュタインが導入した言語活動の基礎が、文法とか、あるいはゲームと呼ばれる考えである。*11

 ウィトゲンシュタインがゲームという概念を用いることによって批判したのは、たとえば「赤さが存在する」とか「青と黄色は同時に同じ位置を占めることはない」といった命題の背後には、なにか特別な本性が存在していると考える傾向であった。われわれには、色の本質なるものが世界の背後に控えていて、それゆえに青と黄色の間にはなんらかの「内的関係」が存在し、その内的関係が、異なる色が視野の同じ場所を占めるという事態を本質的に除外しているのだ、と考えたくなる傾向が存在する。論理哲学論考においては、この内的関係を成立させる背景にあるものが、この世界の論理形式であった。論理形式が、必然性を生み出すと考えられていたのである。ところがウィトゲンシュタインは哲学復帰以降この考えを捨てる。その代わりに導入されたのが文法でありゲームであった。ウィトゲンシュタインは次のように考察している。たとえば緑色を見て、青と黄色が同じ位置を占めていると言ってならない道理は存在しない。本質的なのは、われわれは単にそれを緑と呼び、青と黄色が同じ位置を占めているとは言わないというだけのことなのである。ここにウィトゲンシュタインの偉大な転回があったと私は思う。言ってしまえば、ウィトゲンシュタインは際限なき懐疑の果てにおいて、世界がこのようにあるのは、たんにそのようになっているからだという境地に達したのである。無時間的で客観的な構造が存在するとするのではなく、ただわれわれがそのように世界を表現しているにすぎないということ。その表現の枠組みが文法であり、それにしたがって活動することが実践なのである。このように考えることによって、われわれは完全な器械としての意味という観念から逃れることができる。ウィトゲンシュタインにとって真理とはいわば文化人類学的な次元に存在するものにすぎない。25×25が625になることは、25×25を計算するという実践においてはじめて確定する時間的な事態であり、そうでないようなこともありえた事態なのである。その上で、なぜわれわれの計算結果はつねに一致するかということを問うならば、その答えは、われわれが共通の表現形式の中で生活しているからということになろう。それはわれわれが意味を共有しているということとは異なる。例えるならば、われわれはみな手を2つ持っているということと同じ構図において、25×25は625になるのである。

 

6.数学者は定理を発明する

 以上のように考えることは、数学が基礎を持たないあやふやな営みであるということを意味しない。むしろその逆なのであって、数学者の営みが高度に体系立っていること、そしてそれが有用であることそれ自体が、数学体系の正当性を保証しているのである。同じことは、われわれが言語使用において陥る哲学的困惑の場合にも言えるだろう。われわれは「時間とは何か」とう問いを立てるとき、「時間」という語に対応する本質的対象について語らねばならないという気分にさせられる。これは数学的営みに基礎を求めたくなる欲求と同じ種類の誤解なのであり、この誤解を治療することこそがウィトゲンシュタインにとって哲学することなのであった。われわれは普段、時間という言葉をなんの問題もなく使用している。それこそが語を理解するということの内実なのであって、ここで「時間とは何か」といった問いを立てることはナンセンスなのである。ウィトゲンシュタインの言うハエとり壺とは、まさにこうした伝統的な哲学の問いにほかならない。そして数学がこの手の哲学的問いの温床としてきわめて鋭角的な言語の一形態であったことはこれまで見てきたとおりである。

 こうしたウィトゲンシュタインの思想は、とくに数学の哲学の領域にあっては、「数学は発明である」という主張に端的に現れている。

 人は数学的発見について語る。私は、数学的発見と呼ばれているものは数学的発明と呼ぶ方が遥かによいということを繰り返し示そうとするだろう。

 私が提示するいくつかのケースについて、諸君はおそらく「そうだ、確かにそれらは数学的発明と呼ばれるべきだ」と言いたくなるだろう。しかし、別のケースではおそらく、「このケースでは、何かが発見されたというべきなのか、それとも発明されたと言うべきなのか、はっきりしない」と言いたくなるだろう。*12

 

 われわれが今なお数学において「発見」という語を使いたくなるとすれば、それは数学が予測を行うように見えるからである。たとえば人が縦25列、横25列に整列した人を数を25×25という計算によって得て、その結果がひとりずつカウントした場合に一致するとき、先の25×25という計算はなにか予測を行ったのだと言いたくなる。この誘惑は、とくに物理学が数学によって記述されているのをみるとき、とくに大きなものとなる。たしかに、数学は、たんに文法的であるという以上のなにか正しい情報を物理学者に伝えているように見える。この誘惑に対処できないかぎり、われわれは数学的実在という考えに立ち戻らねばならない。数学的実在論が今なお数学者の基本的スタンスになっているのは、まさにこの理由によるものと思われる。

 予測の問題に関する私の考えは、そしてそれはウィトゲンシュタイン自身の考えとも一致すると信ずるが、予測をするのは計算ではなくわれわれである、というものである。

 125÷5=25というのは発見ではない。なぜなら、この結果はこれらの記号の使用法の一部にすぎないからである。――このことは、「数学的発見」は発明と呼ぶ方がよいと私が言ったことに関わっている。125÷5=25を構成した人は、一つの技術を発明したのである。なぜその技術が興味を引き、役に立つのかは、数学外の考慮である。*13

その計算体系は予測をしないが、その体系を用いて諸君は予測をすることができるのである。*14

 

 これまでに見てきたとおり、ウィトゲンシュタインは、語や規則が、その意味や適用のすべてをあらかじめ含んだ箱のようなものであるという描像を捨てることを提案している。その代わりに彼が勧めているのは、語や規則の意味とは、語の使用や規則の適用といった実践そのものであって、そうした実践を可能とするものとしての文法をわれわれは獲得しているのだという、いわば全体論的で人間的なイメージへの移行である。数学を数学として独立に取り出すから、奇妙なイメージへと導かれてしまうのであって、数学をわれわれの生活から独立して扱うことのできない一つの技術として扱う限り、そうした問題は発生しない。われわれは確かに、他者と一致するようなやり方で規則に従うことができるし、計算によって数々の予測を行うことができる。だがそれを可能としているのは、数学が本質的に持つ性質ではなく、われわれが獲得した技術であり、われわれの生活と根源的な仕方で絡みあう表現形式の働きなのである。

 

7.終わりに

 以上、ウィトゲンシュタインの数学の哲学を概観してきたが、もちろんこれによって彼の数学観が十分に明らかにされたなどということはありえない。ウィトゲンシュタインは実に様々な数学のテーマについて考察しているし、それぞれが深い洞察を含んでいて、この程度の小論でそのすべてを語ることは不可能である。けれども、ウィトゲンシュタインの数学観に通底する基本的なアイディアは、多少明瞭になったのではないかと思う。数学を基礎付けをめぐる問題を、ウィトゲンシュタインは解決するのではなしに解消した。ウィトゲンシュタインにとって計算とは役に立つがゆえに計算なのであり、計算が世界の本質について語るから計算が役に立つというわけではない。ウィトゲンシュタイン的な見方を採用する人にとっては、もはや数学は基礎を必要とするものではなく、一つの道具として、有用なものである。ゲーデルによって不完全性定理が証明されてなお、数学が発展を続けていること、それ自体がその一つの証左であるように私は思う。ただ、一つ注意しておかねばならないのは、数学の基礎付けの問題はいまだ解決したわけではないということである。ウィトゲンシュタイン的な視点から見て数学の基礎付けがナンセンスな試みであろうと、数学者たちが数学の内部において数学を基礎付けることをウィトゲンシュタインは否定していない。それは数学の問題である。『探究』124節をもう一度引用しておこう。「それ(哲学)は数学をも、そのあるがままにしておくのであり、いかなる数学的発見も哲学を前進させることができない。「数学的論理学の主要問題」は、われわれにとっては、その他の問題と同じく、数学の一問題である」。ウィトゲンシュタインの数学の哲学が失望をもって迎えられたのは、このように彼が数学の外部に立つ哲学者として数学の基礎に関する問題をあるがままに放置したこととも関係しているのかもしれない。

 最後に、ウィトゲンシュタインの数学の哲学の有効射程を示す一つの例として、矛盾の問題について検討してみよう。数学の公理化、すなわち、前提的に正しいものと認める少数の命題(公理)と、それから導かれる諸定理の集まりとして数学を基礎付けることを考えるときに、矛盾の発生はきわめて大きな問題となる。なぜなら、排中律を認める限り、矛盾からはいかなる命題でも導けるからである。いかなる命題であれ真であることを証明できるような体系に意味はない。さて、矛盾から任意の命題が導けることは、次の例を考えれば直観的に把握できるだろう。命題Pが真であるとき、命題P∨Qも真である。ここで命題¬Pが真であるとすると、命題P∨Qと命題¬Pより、命題Qが導かれる。この命題Qは命題Pと無関係な任意の命題であって構わないから、命題Pおよび命題¬Pが同時に真(すなわち矛盾)のとき、任意の命題Qが導けることになる。したがって、数学を公理化するさいには、要請する公理が矛盾を導かないことが証明されているか、あるいは排中律を認めないことが必要となる。ここで排中律を認めない方策を取ったのが直観主義の提唱者ブラウワーであり、反対に、公理の無矛盾性を証明することを試みたのがその当時数学界の頂点にいたヒルベルトであった。排中律を認めないことは背理法が使えなくなることを意味しており、それはヒルベルトからすれば甚大な損失であった。だが、ヒルベルトの試みは、ゲーデル不完全性定理を証明したことにより頓挫する。ゲーデルは、もしもある数学的体系が無矛盾であるならば、その体系は自身の無矛盾性を証明できないことを示したのである。たとえば、体系Aが無矛盾であるとき、体系Aの道具立てではそれ自身の無矛盾性が証明できない。ここで、体系Bを持ちだしてきて、それによって体系Aの無矛盾性を証明することはできるけれども、今度は体系Bの無矛盾性が問題になる。だがそれはB自身には証明できない。とするとまた別の体系が必要になって、という具合に、いつまでたっても体系Aの無矛盾性は証明されないことになる。

 この問題についてのウィトゲンシュタインの回答は、きわめてシンプルである。「ならば、矛盾からはいかなる結論も引き出さなければよい」。だがここでウィトゲンシュタインが意図しているのは、直観主義者のやったように排中律を排除することでもなかった。

 数学の公理化におけるヒルベルトのねらいは、数学の基礎的な問題をすべて「証明論」として解決することにあった。どんな難問も記号の世界に投影させれば、有限の組み合わせ問題として解決できると考えたのである。ヒルベルトの思想が、ウィトゲンシュタインの考えと正反対のものであることは明らかであろう。すべてを記号の組み合わせとして考えることは、いわば数学を人間から離れた、それだけで完結した器械とみなすことにほかならない。それは実践から遊離した記号の使用であり、それが哲学的困難の源泉であったことは、これまでに指摘してきたとおりである。ウィトゲンシュタインは、数学を人間の生活の次元から切り離さないでおくことによって、技術として扱うことによって、規則のパラドックスを解消した。同じことが、矛盾の場合にも言えるだろう。すなわち、数学を形式的体系と記号に一任することなく、つねに人間の目で監視し続けること。その限りにおいて、数学において根源的問題は発生し得ない、ということである。もちろん、こうしたウィトゲンシュタインの考えが真に正しいことを保証するものも存在しない。だが、数学が今なお本質的に破綻することなく数学者に営まれていること、また数学の結果が現代社会において役立っていること自体が、ウィトゲンシュタインの洞察の正しさを(語るのではなく)示し続けているように思われる。

 

[参考文献]

ウィトゲンシュタイン全集』第七巻、中村秀吉・藤田晋吾訳、大修館

ウィトゲンシュタイン全集』第八巻、藤本隆志訳、大修館

青色本』、ちくま学芸文庫大森荘蔵訳、筑摩書房 p. 64

C.ダイアモンド編、2015、『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎編 ケンブリッジ1 939年』、大谷弘・古田徹也訳、講談社

黒崎宏「クリプキの『探究』解釈とウィトゲンシュタインの世界」、『現代思想』十二月 臨時増刊号、vol.13-14、1985年、32-43頁

J.ブーヴレス、2014、『規則の力』、中山大・村上友一訳、法政大学出版局

田中一之編、2011、『ゲーデルと20世紀の論理学③』、東京大学出版会

飯田隆、2005、『ウィトゲンシュタイン―言語の限界』、講談社

水本正晴、2012、『ウィトゲンシュタインVS.チューリング―計算、AI、ロボットの哲 学』、勁草書房

野矢茂樹、1994、『論理学』、東京大学出版会

 

*1:ウィトゲンシュタイン全集』第八巻(以降『探究』とする)、藤本隆志訳、大修館、第371節

*2:『探究』第201節

*3:『探究』第185節

*4:『探究』第226節

*5:『探究』第193節

*6:『探究』第178節

*7:『探究』第124節

*8:『探究』第309節

*9:2012,『青色本』、ちくま学芸文庫大森荘蔵訳、筑摩書房 p. 64

*10:同上 p. 65

*11:『探究』 66-71節参照

*12:C.ダイアモンド編、2015、『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎編 ケンブリッジ1939年』(以降WLFMとする)、大谷弘・古田徹也訳、講談社 p. 32

*13:WLFM p. 148

*14:WLFM p. 279