Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0205

 「イクラとかけましてハマチとときます」「その心は」「どちらも値段を聞いているみたいだ」

 知性改善論を読み終えました。その還元的思考をもっと徹底して欲しかった、という気持ち。スピノザが見た実在的理性という完全性は、僕には継ぎ接ぎの機械にしか見えない。認識という箱庭の裡に限定された真理。複雑さによってつるつるに偽装されたざらざら。

 科学の成果をきちんと相対化した上でものを考えられる哲学者ってもしかしていま全然いないんじゃないか。とか。

 僕らの知性は決して世界を解明しない、ただ適応するのだ。筋トレが世界についてなにも明らかにしないのと同じく。認識することや記述することと身体を動かすこととの間には、本質的な違いは存在しないのである。

 哲学は精神病の当事者研究を超えるものではない。

 先日、旧古河庭園というところへ歩いて行ってみました。静かな過ごしやすい庭園で、読書や考えごとが捗ります。あと少し暖かくなってくれると完璧かな。帰りに道にゲーテの小径という場所を見つけて、ああこれがそうか、となりました。うちの近くにゲーテ記念館とかいう施設があるという話を、だいぶ前に友人から聞いたことがあったのです。時間を超えて交差するエピソード。あるいはエピソードが時間を作っているのか。そういえば最近かなり無時間的な気持ちで生きている気がします。歳をとって変化が減ってしまったのかもしれない。気持ちとしては、以前より若くなった感じでいるのだけれど。

 GuPの影響で戦車戦の知識をちょっと手に入れたため、「斜に構える」という言葉を見ると、おっ昼飯の角度か?と思うようになりました(違う)。