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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0207

哲学

 それ自体を対象化すると消えてなくなってしまうもの。意味、目的、理解、幸福、などなど。

 スピノザの「知性は否定的観念よりもまず肯定的観念を形成する」という洞察、これはデイヴィッドソンの根源的解釈にも通ずると思うけれど、実情はむしろ、僕らが一般に形成する観念の形式を「肯定的」と呼んでいるというのが近いと思う。学習とは状況と行動の対応なのだ。

 「なにもわからなくなったね」「ねー」とやる空間が欲しいという話を友人とした。なんなら僕がつくりたいと思う。感覚を共有できる友人が欲しい、というのとは少し違う。場である必要があるのだ。というのは、そこへ集うということの積極性をお互いが認識しあっていることによって、それなしでは得体のしれない他者という存在を限定することが出来るから。ある種の共犯関係をつくること。まあ、このこと自体は集団一般の性質なので、そういう場がすでにあるのであればそこへ所属すれば良いのだろうけれど、たいていの集団って僕の見る限り肯定的観念のもとに構成されていて、僕みたいになにもできないなにもわからない人間には居場所がない感じがするのだ。僕が変わるという線はすでに諦めている。人間のやることなすことが概ね肯定のもとに行われるのというのは、肯定が否定よりはるかに限定されているから当たり前のことで、だからたとえば単純な社会不適合者の集団はすぐに崩壊するだろう。だから何かそういう場を作るとするなら、構成員を限定する必要があって、それはやはりなにかポジティブな命題やら行動理念やらを立てるということを意味するのだが、根本的な問題として、僕らがいったいなにをやりたいかということが明確でないというのがある。違う、やりたくないことをゆるやかに共有しているのだ。うーん…。

 ひどくこじらせてしまったような気がする。長々書いてしまったけれどこれってヤマアラシのジレンマとかそういう語で片付けられてしまうようなモデルなのではないか。少し違うとすれば、僕はそれほど他者との恒常的つながりを求めているわけではなく、大抵の場合面倒臭さが勝ってしまうということだろう。人と何かするよりは自分一人で考えたり絵を描いたりしている方が楽しくて、でもときどきは人と話をしたくなる。そういう都合の良い人間関係的欲求を一つの空間を形成することによって満たしたい、みたいなことになるのかもしれない。こうしてみると僕はなんとも身勝手な人間である。まあ、知っていたけれどね。そして僕の身の回りにはそういう身勝手な人たちがけっこういて、そういう人ほど僕にとっては魅力的だったりするのだ。彼ら身勝手で面倒くさがりな人間たちがふと気まぐれに立ち寄るような、そんな場所があったら素敵だと思う。という妄想だったのさ。

 面倒くさがりこそある種のマメさを備えていないと詰むのである。

 僕が他者からの助言に全然期待できないのは、自分は異常なのではなく、彼らがするであろう助言の素朴な延長線上において行き詰まっているのだという意識があるからで。

 にゃー。