Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0227

 理解から自明に至るほんの短い間にだけ人は哲学したことを書くことができる。

 何をする気にもなれない状態が続いています。

 自分の心がひそかに実行している冷徹な損得計算、それをはっきり予感するようになってから、僕は何を選ぶにつけ「身勝手な悪いやつ」である自分を受け入れねばならなくなってしまった。還元主義者の原罪というやつ。

 「就活」周りの諸々を眺めているとたいそう嫌な気分になる。苦手なコンテンツを強制的に視聴させられているかのような生きづらさ。僕はいつまでこの不毛なままごとを続けねばならないのか。人生にうんざりする気持ち。

 我々はAとBとを区別しただけで、AとBそれぞれについてなにか本質的なことを述べたわけではない。

 小学生の頃、言葉による言葉の説明は巡り巡って結局宙に浮いてしまうのではないか、と考えていたのを覚えている。僕という人格はあの頃にはすでにかなりのところ方向づけられていなのだな、と思う。

 たとえば人間を構成する物質的過程を十分な精度でシミュレートしたとして、それで人間を理解したことになるのか。ある意味ではそうかも知れないが、また別の意味ではそうではない。というのも、それが「人間のシミュレーション」であることの客観的な根拠は存在しないのである。単にそれがわれわれには人間のシミュレーションであるように見える、というだけなのだ。そして同じことが、ある一人の人間とその他の人間との関係においても言える。本質とか法則とかいったものは、適度な曖昧さの中にのみ現れる、と言えるかもしれない。

 生命とは何か。我々にとって生命っぽく見えるもの、以上。とやってしまえることの痛快さ。僕はそれでどんな問いでも拒否することができるということを知ってしまったのだ。

 計算機は計算をするだろうか。計算機は、自分の出力した結果が計算であることを知らないのだ。それを判断するのは結局のところ人間である。もっと言うなら、私のみである。