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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0229

 生まれてはじめて2月29日を経験した気がします。たぶん4年後も似たようなことを感じると思う。

 びっくりするほど気力がわかないのでベッドの上にへばりつくような生活をしている。ときどき哲学書を読むくらい。うぇー。

 論理哲学論考を読み返しています。探究をきちんと読んでようやくここで彼がやりたかったことが見えてきた気がする。まだうまく言葉に出来ないけれど。

 僕らの語りを支えているものそのものについては、僕らはなにも語ることができない。ということを、論理学や数学を使って真理の一般形式を求めた人たちにわかるような仕方で書いたものが、論理哲学論考という書物なのではないか、という気はする。彼は対象とか事実、数などといったものを形式的概念と呼び、それらは語りうるようなものではなく〈変項として〉言語のうちに現れるものである、という。たとえば「xが存在する」という命題における変項xが本質的に〈対象〉に対応している、というような考えだ。これは言語的存在分節の巧みな言い換えであると思う。〈それ〉を〈それ〉として見る、ということ、存在とは相貌なのだということ。そして真理の一般的形式というものもまた形式的概念にほかならず、それゆえ言語のうちでは語ることができない。つまり「〈それ〉一般が存在する」というような主張はナンセンスだということである。ところがこの時点のウィト氏は割とポジティブで(そうであらねば生きてられなかったのだろうと邪推しているけれど)、真理を一般的に述べることはできないけれども、要素命題への操作の繰り返しという形で真理を構成することはできる、と主張している。ここでは要素命題が〈本質〉の役目を果たしている。だがこの考えは後に放棄されるのである。「本質は文法の中で述べられている」(探究371)。

 こうしてみると、前期ウィトゲンシュタインの思想は「知性改善論」におけるスピノザの主張にずいぶん似ている。どちらも単純なもの・要素的なものに真理が宿ると考える点で。

 地球そのものが誰からも支えられてなくたって、僕らは大地に立つことができるのだ。

 「やりたいことがないのでひとまず可能性を広げている」みたいなこと言ってた小学生の自分をぶん殴りたいけれど、あいにく僕の腕は時間方向への自由度を持たない。使いもしない可能性など「いつか使うかも」と言って取っておかれ結局ただ部屋を圧迫するだけのガラクタみたいなものだ。いい加減部屋を掃除せねばならないのだけれど、死ぬまでこのままのような気もする。そういうわけで最近は、何者にでもなれる何者でもない奴として死にたい、みたいなことを考えるようになった。中二病の極北という感じがする。まあ目標があるのは良いことだ、たぶん。

 言葉の上ではお前の好きにやれば良いと嘯きながら、画一的な理想像を雰囲気によって伝播させる環境というのがけっこうあって、僕の実家にはそういうところがあったし、3年過ごした灘校はもっと巧妙にそれを実行していた。社会構造上の問題だと思うので別にそれを恨むところはないし、僕はいまの僕にそれなり満足しているから別段後悔があるわけでもないけれど、似たような状況で苦しんでいる人々を眺めていてもう少しなんとかならないものかなと思う。うーん。

 ふと幼いころの記憶を思い出した。祖父が僕を風呂に入れながら「果ては東大だ」みたいなこと言っている記憶。3歳くらいの記憶かしら。はあ。

 昔のことといえば僕はオムツをはずした日のこと覚えているのよね。そこにいるのが僕だとはちょっと信じられないけれど。