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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0409

哲学

 体調が悪いなあと思いながらぼんやりしていたら一日が終わっていた。ちょっと熱があるみたい。頭が痛い。

 本質を否定すること、あらゆる存在者は分節線に区切られた一つの領域であるとみなす立場では、「りんご」という対象と「りんごは美味しい」という言葉は存在として同列である。「私」と「私はチョコレートが好きである」も同列であり、当然両者は本質的関わりを持たない。Ask.fmで「好きな食べ物は何ですか」と聞かれてこのようなことを考えていた。なんというか、自分についての記述は、「自分」に〈ついて〉の「記述」ではなく、「自分についての記述」である、ということ。雑な言い方をすると「私」も含めてすべては(広義)コミュニケイションの道具なのだ、ということになるのだけれど、「コミュニケイション」という概念もまたそうであるというところに、なにか限界のようなものを感じる。僕らは言葉の牢獄に囚われている。

 すべては言葉である、と言われることがある。その表現は少しミスリーディングであるように思う。むしろすべては「感じ」なのだ。正しい論理に対して感じる正しそうな感じ、言葉によって惹起される情動、それらは赤さや痛みと同じ種類の「感じ」である。意味や論理は痛みの親戚なのだ。ハイデガーが「気分づけられている」という表現で伝えようとしていたことは、このような認識だったのではないか、と想像してみる。そういえばウィトゲンシュタインはヴァイスマンに対し「ハイデガーが存在について意味していることは想像できる」と述べているらしい。意外なような、当然なような。