Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0411

 世界は「感じ」でできている、ということを書いたけれども、それは痛みや赤さが一つの数えられる対象としてこの世界に存在するということを意味していたわけではない。りんごを世界から分節する輪郭線が本質的には存在しないというのと同じ意味で、ある命題的思考や痛み、赤さといった知覚的現象を他から区別し境界付ける輪郭線も存在しないのである。少なくとも僕はそう考えるほうが見通しが良いと考えている(それも所詮は説明なのだけど)。たとえば右手と左手は空間的に別の位置を占めており、またそこからの感覚を処理する脳の領域も別であるはずである。だからそれらが一つの感覚として統合されているという事態を許すためには、なにか本質的な空間的連続性を認めねばならないような気がしてくる。それゆえ人は魂というものを仮想したのだろう。それは一つの信仰である。けれども次のように考えてならないとする道理はないのだ。右手の感覚と左手の感覚は実は統合されておらず、どこまでも平行していて交わらないのだと。「私が在るのではなく、私が在るという認識が在る」と僕が言うとき、想定しているのはこのようなことだ。ここでの認識とは、命題的な認識ではなく、それらを構成する(かのように見えている)相互独立の微細な「感じ」の集まりを想定している。それは液晶のドットが集まって一つの図形を構成するような仕方で認識を構成し、しかしそれぞれのドットはどこまでも平行に機能している。右手の感覚も〈右手の感覚〉ではなく、そうした微細な知覚の束によって仮初に形作られた模様なのだ。この世界は相互に独立した知覚ドットによって表現される「感じ」の濃淡として構成されている、と言いたい。そこでは、私の赤さとあなたの赤さの関係は、私の右手と左手の感覚の関係に等しい、どこまでいっても互いに交わらない知覚の束として。それがまったく別物に思われるのは、それらをまったく別物と思うような知覚の束が存在しているからだ。そしてもちろん、そんなものは〈存在〉しない。というようなことを考えている。これもまた信仰ではあるのだけれども。

 今日は大学の講義を覗きに行って何を受講するか決めるつもりだったのだけれど、昨夜この間の問題(Σ_i⊆Σ_(i+1)の示し方)について考え始めたら眠れなくなり、睡眠不足で気分が悪くなってしまったのでやめにした。明日から頑張ろうと思う。ちなみに証明の方はなんとか構成できたのだけれどこれで良いのかわからない。証明が証明として成立するための条件とはいったいなんだろう、と思う。ウィトゲンシュタインは「見通しが良いこと」というけれど、僕からすればいくら見通しよく思われる証明であろうとなにかが見落とされている気がしてならないのだ。数学的命題の真偽を決定する境界的な条件を正しく内面化できていないのではないかと思う。哲学探究に登場するあの生徒の例、あれは僕なのかもしれない。ところで「算術階層」って格好いいよね。