Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0428

 迷いなんてなくて、ただ内観の不足があるだけ。

 世界を分節したのは私ではない、私も世界が切り分けられてはじめて現れるものだから。紙面上のインクの染み、それは誰かがそう見ないかぎり「線」ではないけれども、でも誰も見ていなかったところで、誰かがそれを見れば「線だ」と言うような「それ」はある、というような喩え話にある意味で似た仕方で、世界はすでに分節されている、それは本質的ではないけれども、ある現在に対して唯一定まる、実感としての分節線である。知覚ドットのオンオフの束。それがすべてを表現している、と考えたい。時間的な方向を含めて考えれば、分節や解釈は複数ありうるように思われるけれども、しかしある瞬間に対する「感じ」は世界全体でひとつ定まっているのだ。

 自分の哲学でつらくなっているうちはまだ奥へ進む余地がある、という予感。

 素粒子物理の博士を持っているバイト先の上司に、そのへんの領域で使われている数学について聞く機会があった。彼によれば、だいたいのことはフーリエ変換とテーラー展開でなんとかしてしまって、危ういところは〈直観〉で補佐するという感じらしい。なんというか、人間!という気持ち。

 意志という形式もこの世界の本質的カテゴリではないのだと考えれば人を恨むことじたい筋違いに思えてくる、というこの思想も本質的ではなく、起こっていることが起こっている。にゃーお。

 向かいに建物があったせいで日当たりがあまり良くなかったのだが、いつの間にかそれが取り壊されていてめっちゃ日差しが入ってくるようになっていた。日照権

 ある種の憎悪でもって思考を加速できるという意味では、哲学の授業に出ることは有用かもしれない、と思うようになった。けっこう消耗はする。

 自分の知的傾向のこと。僕は認識から解釈までの距離が近すぎると思う。あらゆることについてとりあえずの説明を当て嵌めてしまう。曖昧さへの耐性のなさの裏返しだろうか。ともかくあまり誠実な態度ではない気がするので、判断を保留するということをやれるようになりたい。きちんと情報を集めること。

 DCGANのGeneratorをRNNに繋いでtext2image(image2textではない)。学習させてみているけれどあまりうまくいく気はしない。それから以前為替を学習させていたDQNを少し改造して、正の報酬と負の報酬とで経験ストックを分けてみた。結果は全然ダメ。やはり値動きとして現れている程度の情報からは未来を予測するのは無理なのだろうか。もっと単純なゲームで評価してからのほうが良いかもしれない。うーん。