Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0429

 とあるブログ記事で「デッサンは完成させようと思うな。思った瞬間に、雑になる」という一文を読んで、少し考えこんでしまった。僕は完成の見えない作業をするのが苦手だ。というか、終わりが見えてはじめて何かに取り掛かることができるという方がより近いかもしれない。思い当たるのは、僕はつねに「完成させたあと」のことを考えているということだ。いつの間にか、目的が手段に転じてしまっている。何かをするために、その何かの外側に意味付けを必要とする。無限に後退してゆく意味を求めて、僕は先を急いだ。人生を雑にこなしたその先にあったものは、ただ根源的な無意味であった、というのはこれまで散々書いてきたことである。これではいけない、と思う(ほんとうに?)。丁寧に丁寧に。「完成だけを見据える」こと。

 フォン・ノイマンは6歳の時に8桁の暗算ができたとかそういうエピソードを聞くと、何やら自分とは別種の天才という生き物がいるのだというちょっと諦観気味の気分になるけれども、ためしてみると案外5桁の掛け算くらいは頭のなかだけでやれてしまうものだ。もちろん相応の時間はかかるけれども。脳内筆算で計算するとすれば、覚えねばならない数字はせいぜい50くらいのもので、語呂合わせなんかを使って長期記憶にしまいこんでしまえば作動記憶はずいぶん節約できる。計算経過を記憶するという部分を除けば本質的な困難さの程度は2桁の計算とだいたい同じだ。他にもやってみれば意外とできてしまうことというのはあるのだろうと思う。「人間に可能なこと」の一般的観念が人間に枷をはめている事例はたくさんあるのに違いない。

 頭のなかだけでものを考えるのがけっこう好きだ。作動記憶に乗るように問題を切り分ける過程で、自分の思考様式が変化するのを実感できることがあるから。些細な例だけれど、最近「二本の釘に一本のひも」というパズルを考えていて、そういうことがあった。ひも全体の連関を一度に考えようとするとすぐに頭がパンクしてしまうのだけれど、いくつかの操作を操作として抽出できれば、人間の貧弱なメモリでも扱えるようになる。ひらめきの心地よさと、あたらしい特徴量を獲得する嬉しさ。世界を圧縮することは、ある意味では自分を拡張することなのだと思う。もっとこう入り組んでゆきたい。