Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0503

 思い在り、ゆえに思い在り。

 GWは多摩六都科学館というところへプラネタリウムを見にゆきたいと考えていたのですが、生活リズムが完全に崩壊していていまだ行けていません。ということはそれほど行きたい気持ちが強くないということでもあって、それならそれで良いのかもしれない。僕は衝動性が高いけれども、行動に移るのに要する活力の閾値も同じくらい高く設定されているようです。体力と衝動性の均衡点としての腰の重さ。心がもう少し落ち着けば、その閾値ももう少し下がるかもしれない。あるいはもっと体力が増せば。

 非意味(無意味ではなく)に慣れてしまって良いものなのか。たしかに精神はかなり安定するけれども、それはかつての僕が持っていて僕をここまで導いたあの偏執的な動機付けを失うということでもある。それはもう役目を終えてしまったのだろうか?非意味を自明視する僕の一部分は、このようなことを問うことすらもはやナンセンスであるとみなしはじめている。私などない、つまりそのような動機や思惟もまた〈私〉を本質的に規定するものではなく、連続する世界の部分でしかないのだと考える立場では、自ずとそうなる。しかしまた別の一部分は、非意味を基礎に立てたこれら論証もまた、非意味一派が退けようとした命題的思考にほかならないとしてこれを批判する。もちろんこの批判も命題的思考にすぎないが、この批判が批判として機能しているよう見えるかぎり、非意味派の主張もわれわれの批判と同次元にあるものなのだ、というのが彼らの言い分である。これに対して非意味派は、いやいやたしかに僕は〈非意味〉を直視したのであり、そのこと自体はなんら命題的事態ではないのだ、という反論をするのだけれど、これは少し苦しい。問題は、もし自分がなんらかの意味で〈非意味〉を直観したのだとしても、それそのものは僕の現実の行動になんら影響を与えないということである。もしそれが現実の行動を規定するのであれば、僕の営みが「僕」の「営み」である以上、〈非意味〉は結局「非意味」に、一つの生きる技術へと成り下がる。だからいま僕の精神はそれなりに安定しているわけだが、ここには重大な火種が潜んでいる。というのも、いかなる認識も、それが現実に反映される限りにおいて、「」付きの概念に転化してしまうという認識これこそが、僕に〈非意味〉を理解させた当のものだからだ。死ぬことすら生のプロセスの帰結として解釈できてしまうこと、無意味もまた一つの観念にすぎないこと。それらが強く実感されるようになったことが、僕に〈非意味〉を自明視させているのだ。それゆえ「〈非意味〉の自覚によって心が安定した」というこの状態そのものが、〈非意味〉を「非意味」へと失墜させる〈非意味〉なプロセスにほかならないということになってしまう。この地点において自分はずっと燻り続けている。プラトー。ダイナミズムとしての非意味。それはそれで良いのかもしれないけれど。

 結局のところはこれも「良さ」の話なのかもしれない。

 文を生成する際、自分は修飾の順序にかなり無頓着であることを自覚した。無時間的に考えたそれを、雑にぐしゃっと押しつぶして一列に並べている。そのせいで思考の再現性が失われてしまっている。この辺ちゃんと意識するようしたい。あと冗長性をも少し大事にしようと思う。この日記のタイトルも「冗長性」だしね。

 ワーキングメモリの容量にかまけて適切な抽象を獲得してこなかったのが良くなかった気がする。

 無力な立憲主義者という文章を読んだ。僕はこういう問題を適切に評価する学問的バックグラウンドをまったく持たないけれども、ともかくある種の熱量と説得力はある。僕は人々が十分に「狡猾」であり、かつ自分の動機に自覚的であれば物事は安定的に機能しし続けると素朴に考えていたけれども、それは甘い認識なのかもしれないと思う。十分な狡猾さを得るのにも資本がいるし、自分の動機をどのように解釈するかという点で文化的振れ幅がある。人々が上手くやってゆくのは難しい。みんななかよく。