Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0519

 世界を分節化する区画線、これもまた一つの観念に過ぎないのだということをよく考える。言葉はいつもこっち側にあり、いくら手を伸ばしたところであっち側へ届くことはない。脳は脳自身を理解できないし、宇宙は宇宙自身を理解できない。理解というのはいつだって抽象化を伴うから。僕がやらなくてはならないのは、世界をそれ自体よりもさらに具体的にすることだ。そしてもちろん、そんなことが可能な道理は存在しない。

 なぜ赤は赤いのかとずっと気になっていた。赤さの〈実感〉は赤い光の物理的性質からは決して出てこないように思われたから。その不思議は、赤を赤として実感する〈私〉の実在に対する不思議でもあった。どうして世界には、私であるような部分とそうでない部分とがあるのか。現象でしかないこの身体が、どうして〈私〉に一致するのか、知覚の統合先になりうるのか。自分の慣れ親しんできた原子論的描像と、〈私〉の実在的統合の概念とはどうも相反するように思われ、そこにある間隙を埋めうるような説明を求めてきたのである。その根源にあったのは、私は私であるというこの疑い難い気持ちであった。けれども最近は少し感じ方が変わってきている。きっかけは、右手と左手の感覚は比較できないということに気付いたことだった。これは別に右手と左手の感覚の違いに限らないので、赤の赤さ問題に対比して「赤と青の比較不可能性問題」と呼ぶことにする。一般的には、僕らは赤と青の違いについていろいろなことを述べることができる。波長が違うとか、印象が違うとか。けれども、第一次的な〈見え〉のレベルに遡ると、実は赤と青の違いは説明できないのだ。赤と青は同じであることがありえないような仕方で違っていて、だからそれらが「どのように」違っているのか言葉にすることはできない。これは根本的には赤の赤さ問題と同じことなのだけれども、赤と青の比較不可能性という形で捉え直されたとき、「赤と青の両方の知覚が発生する場としての私」というイメージが自分の中で揺らいだ。〈私〉が統合されている必要は必ずしもないということに気付いたのである。赤を感じる〈私〉と青を感じる〈私〉とが決して交わらない二つの主体として平行に存在していても良いということ。そしてもちろん、〈私〉は二つに限らない。私は無数に分割され、それぞれがそれぞれに何かを感じていて、それらは統合されていない。〈私〉の〈赤さ〉ではなく〈私の赤さ〉があり、〈私の赤さ〉もまた無数の感覚素からなる。視野のある位置にある赤色と別の位置にある赤色とを(実感という意味においては)比べることなどできないのだから。私の赤さとあなたの赤さの関係は、私の赤さと青さの感覚の関係に等しい、どこまでいっても互いに交わらない知覚の束として。

 これもまた一つの喩え話にすぎないのだけれども。

(追記)

 私が統合されていなくてもよいということは、世界全体が一つに統合されていてもよいということでもある。そこにおいて私は世界に一致する。