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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0827

哲学

 物理学が現象を高精度で予測できることは、すべては解釈でありゲームであって世界と直接関わるものではないという認識に相反するように思われる。われわれは世界について何か本質的な知識を掴んでいるから、それができるのだと言いたい気持ちになる。とくに数式や言語といった「抽象的」な形式をいちど経由することが、その気持を強める。けれども考えてみれば「抽象化する」という営みも一つの物理現象なのであって、だから物理学が砲弾の射線を予測できるということは、本質的には「一発目の砲弾が二発目の砲弾の射線を予測している」ことと同じなのだ、ということを思う。予測の精度を増すことは、一発目と二発目の発射条件を限りなく近づけることに対応している。ところでここで「一発目の砲弾が一発目の砲弾の射線を予測している」と言ってみても別に構わないということが重要であって、そういう意味では、物理学の予測精度に際限はない。言い換えれば、予測精度が無限に向上しうるということは、物理学が世界に「触れている」ことを意味しないのである。

 物理学は世界が時空的な繰り返しの構造をもっていることを前提している。太陽について成り立つことはシリウスでも成り立つし、去年起こったことは今年も起こりうる。だが一方で真の繰り返しなど起こるはずがなく、ゆえに繰り返しはある視点から見て繰り返しであるのにすぎない。同一性の問題と同じである。生き物という枠組みから見れば、ふたつの事象を同一のものとして扱うのは(マッハ的にいえば)生命活動における経済的な理由によるのであって、つまりそれが視点・パースペクティブということになるのだが、それらをひっくるめた宇宙的な枠組みから見れば、パースペクティブもまた生じては消える瞬間的な安定状態にすぎない。世界の分節化というわれわれの営みもまた、宇宙からすればエネルギーの淀み・偏りでしかないのだ。そしてその偏り方に際限がないという意味おいて物理学は際限ない予測精度を獲得しうる。それは結局のところ世界に対する人間性の押し付けなのだけれども。