Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0924

 記号とは対象を代替するものではなく、むしろ人間を操縦するための特殊な刺激であると捉えたほうが筋が良い気がする(これも一つの喩えだが)。少なくとも「計算は予測をしないが、君は計算によって予測をすることができる」というウィトゲンシュタインの言葉の意図は、こう考えることでよりはっきりすると思う。

 たいていの認識は正当化を必要としない。目の前に林檎があることを証明する必要がないように。正当化が求められるのは、認識枠組みそれ自体の在りようが問題になる場合である。正当化はある体系においてなにかを示すものではなく、新しい視座を提示するものであると言いたい。それはたとえば、ネッカーキューブのある頂点を指差して「ここに注目すると下から見上げた立方体に見えるよ」と教えることに似ている。