Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 紙面を線によって分割することを考えよう。言うまでもなくこれは分節化の比喩である。紙面は世界であり線は文法であって、線に囲まれた領域は観念である。さて、ある領域を囲むために引かれた線が、意図せず他の領域をも囲っているということがありうる。このことを発見するとき、人はそこに必然性の影を見出す。なるほど観念は恣意的かもしれないが、観念が観念を導く過程は、すなわち論理は、真に必然的なのではないか?というわけである。前期ウィトゲンシュタインはおそらくそのように考えていた。基底は経験的だが、操作はそうではない、というような記述が論考にはある。だが、後期ウィトゲンシュタインにとってはもはやそうではなかった。前期ウィトゲンシュタインにとって領域を囲む輪郭線があらかじめ無限の長さを持った超越的直線であったのに対し、後期ウィトゲンシュタインにとってのそれは有限長のざらざらした曲線である。そして「もし仮にその曲線を「自然に」延長したならば、この領域もまた囲われることになるだろう」というポイントに、彼は必然性概念を定位したのである。「数学的命題はひとつの道を決定する」という彼の言葉は、おそらくこのようなことを意味している。