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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 ランダムネスもまた言葉、観念にすぎないのだ、ということを思う。つまりそれに対応する実体がこの世界にあるわけではないということ。無意味が非意味であるのと同じように、無規則もじっさいは非規則として見出された一つの規則なのだということを考える。それは混沌ではない。むしろわれわれの認識が前提している事前分布に正確に一致しているがゆえにわれわれに意味をもたらさないだけなのだ。たぶんだけど、われわれの認識はランダムネスを仮定してそこからの距離を測るような仕組みになっている。偏りを見出すためには偏っていない状態というのを一つ定めておく必要があって、それがランダムネスなのだ。それは真の意味での〈ランダムネス〉ではない。世界の全ては互いに関係しあっているのだから。みたいな。


 高校以来の友人が亡くなったという報せを受けた。事故だそうだ。ここしばらく顔を合わせていなかったから、あまり現実感がない。ただただ虚しい気持ちだけがある。

 「また会うことができる」ということの意味を考えていた。可能性は言語的なものにすぎない。だが現実はひとつだ。そういう意味では、もう二度と会うことのない生者たちが決定論的に存在する。彼らは僕にとって死者と同じであり、彼らにとっての僕もまたそうである。違いはただ言葉の上にのみ存在する。そしてその違いこそが本質的である。


 自分の気持とは結局のところ「そう書けただけ」のものに過ぎない。自分の情動にある表現を当て嵌めてみて違和感が生じなければ、それが自分の気持ちということになる。その情動に対する〈正しい〉表現がひとつ定まっているわけではない。そう書いてみてしっくりくることだけが、それが自分の気持であるための条件なのだ。(この解釈可能性の幅のうちに、洗脳とか自己暗示といったものがあるのだろうと思う。いまだ発見されていない「しっくりくる表現」を与えること。)「自分探し」という言葉があるけれど、それは要するによい表現を探すことなのだ、と思う。

 「自分の情動」という言葉を使ったがこれは少々問題含みな表現であると思う。命名されていない感情それ自体は実体を持っているという印象を与えてしまう可能性がある。だが情動それ自体もまた解釈であると言いたい。痛みや赤さ、怒りといったものもまた実在しない。それ自身も現実に対する解釈なのである。たとえば動物が天敵を前にして抱く恐怖はその状況についてのひとつの解釈だ。痛みや赤さも同じである。言語的解釈はその特殊な形(際立って再帰的な形)にすぎない。


 最近書くことをさぼっていたせいかうまく言葉が出てこない。脳内LSTMが言葉を忘れてしまった感じがする。そういえば時系列データ解析にRNNを使っていて思ったのだけど、RNN的な構造はあんまり本質的じゃないんじゃないか。なんというか、「空を飛ぶためには羽ばたきが必要」みたいな勘違いをしている気がする。人間の脳があまり長期的に情報を保持できないからと言って、計算機に同じことをさせる必要はない。


 いかなる表現に対しても違和感を覚えること、これはひとつの才能なのではないかという気がしてきた。