Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 自分には多少のアレキシサイミア傾向があると思う。アレキシサイミアとは自分の情動を認識することが不得手な性質のこと。そしてその欠陥を、観察によって補っているところがある。たとえば自分は絵を描くことが好きだと思う。でもじっさい絵を描いているときには、絵が楽しいなんて気持ちは一切ない。ただ無我夢中で絵を描き続けている自分を観察して、どうやら絵が好きらしいと認識しているのにすぎない。みんなそうなのだと思っていたけれど、どうやら多くの人たちはそうではないらしい。その違いが何に由来するのかはよくわからない。Wikipediaには脳の半球同士の連絡が鈍いのではないかという仮説が書かれていた。昔から自分は言葉とイメージの連絡が悪い気はしていて、だからまあやっぱりその辺に理由があるのかなとは思う。女性よりも男性のほうが脳梁が細いらしく、そして自閉症というのは極端な男性脳であるという。そう考えると、僕の脳の統制の取れなさについても納得がいく。僕の脳の各部位はてんで気ままに働いている。他の部位に邪魔されないおかげでそれぞれの能力は高い。でも上手に使えない。困った。で、情動と高次意識野との間に直接のホットラインが引かれていないために、僕は外から見える情報だけをもとにして自分の気持ちを推察しなくちゃならない。ということは、実際に行動に移るまで自分がそれを好きか嫌いかわからないということであり、とするともしかして僕のある種の衝動性はセルフモニタのひとつの手段なのかもしれないという仮説が浮かぶ。しかし現実というのはなかなか後戻りが効かない。体験版がもっとたくさんあればいいのにと思う。大学生活お試し体験一ヶ月、とかね。それとも何かはじめる前に自分の反応を予測できるようになればいいのかな。これはある程度は得意になってきてると思う。おかげさまで何もやらないうちに想像で満足できるようになってしまった。困った。普通の人たちはいったいどのようにして意志決定をし、なにかを好きだと言っているのだろう。すべての人は本質的に僕と同じであって自分の気持ちをそれほど正確に把握しているわけではなく、ただそれを疑わないだけなのだ、ということは考えられる。そもそも気持ちというのは解釈の次元にしか存在しないものなのであって、このこと自体は脳梁の太さなんかと関係ないと思う。つまり僕とその他大勢とで情動認識の質が完全に違うわけではないんだろうってこと。ただ彼らの気持ちは高次意識中枢により強く作用して、意識にもっと抽象的で複雑な願望を抱かせることができる。疑いの気持ちなんて一切浮かばないくらい高度で巧妙で力のある嘘。自分にもそういう気持ちがあれば楽だったろうになあと思う。私にもただ一つの願望が持てるならー。なんか文章が支離滅裂になってきた。つかれた。