Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 物事を抽象化するためには、捨象される部分が一個の対象として"見えて"いなくてはならないということに気付いた。つまり抽象化においては瑣末な情報が落ちているのではなく、それらが(こう言ってよいのかはわからないが)無意識に回収されているのだ。個々の要素的段階が身体化され、意識することなくその流れを追うことができるようなってはじめて、それを抽象できる。重要なのは、いくら抽象したところで、その対象を認識するコスト自体は変化しないということである。たしかに意識的思考は節約されるが、その背後では同じぶんだけ直観的思考が働いている。そしてその能力は脳の学習能力にバウンドされているから、必然的に我々の自然に対する理解力には限界があるということになる。おそらく将来我々は「まったく納得は得られないが予測は可能である」という形で自然と向き合うことを迫られるだろう、と思う。人より賢い計算機の手を借りて。