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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 くるりくるり。無限小の円周を歩いて回る。


 孤独について考えていました。思うに僕は、あらゆる超越的なものたちを言語ゲームの内側に位置づけるにあたって、他者性という超越も退けてしまったのだと思います。何が言いたいかというと、他者というものもまた僕が世界を切り開いたあとにはじめて現れるゲームのコマにすぎない、ということです。僕自身がそうであるのと同じように。私は世界、世界はひとり。そんな気持ちで生きています。生きてゆきます。


 天才少女の檻の前には「目的を与えないでください」という注意書きが貼られている。


 新しい領域を探索する場合は”自然さ”にあまり拘らないほうが良い、というのが最近の学びである。学習とか理解といったものはいわば自然さの更新なのだから。


 哲学の問題はどれも抽象に端を発している。抽象化はつねにある視点と対応しているのに、人はしばしばそのことを忘れて、その抽象が独立の実在であると考えるようになる(「私」とか「時間」とか)。結果として、その抽象を適用可能な範囲を超えて使用してしまうことになり、矛盾なりアポリアなりが発生する。

 抽象とは認識そのものである。


 機械はプログラムに従っているだけで何かを理解しているわけではないと人はいう。だがそれを言うならば機械がそうであるのと全く同じ意味で僕らも何かを理解しているわけではない。違いは、僕らのプログラムにおいては「理解する」という言葉も命令として機能する、ということだけだ。


 良い冗談を言えることはとても大切なことなのだ、ということを思った。


「僕はいったい何がしたいんだろう」
「君が今まさにしていることさ」

 どうしようもないこと・この世界の本性に関わるものに対してネガティブな印象を抱いてしまうのは不幸なことだと思う。虚無を、欲望を、不自由を愛していかねばならない。「知性あるものは不可避の事象を憤ったりはしないものだ」とはカレルレン(幼年期の終り)の言葉。