Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 人間は(というか生物は)知覚を行動に変換する関数として捉えることが出来ると思う。で、単純なフィードフォワードネットワーク(つまり直観)では計算の深さに限界があるから、繰り返し構造を導入して効率化を図ったものが言語である、と考えてみたい。ここで僕が意図しているのは、言語は何かを記述するものではなく、あくまでも知覚を行動に変換する関数の内部状態に過ぎないということだ。僕らは現象をさまざまな方法でモデル化するが、そのモデル化は抽象を含んでいる以上、真に現実に対応するわけではない。だがそうしたモデルはしばしば有用である。このことを説明するために、自然はある種の階層構造を持っているのだと考える人たちがいるけれども、それに対して僕は、そうしたモデルは自然を記述しているのではなく、知覚から妥当な行動を導くための(有用な)道程のひとつなのだと考えたいのだ。たとえば「雷様はへそを取る」という説明であっても、電磁気学と医学による説明であっても、雷鳴という聴覚刺激から耐雷姿勢(へそを守るようにしてしゃがむ)を導くことは出来る。その意味でこの2つの説明は等価である。どちらが正しいとも間違っているとも言えない。そもそも自然法則を”完全に”把握しているわけではない以上(僕の考えに従えばそのような事態はありえないわけだが)、どちらも間違っているとも言える。だがそれらは役に立つ。もちろん、その適用可能範囲には違いがあり、その範囲を拡大しようと頑張っているのが、人類の学的営みであるといえるかもしれない。より汎用性の高い変換規則を見つけること。(ところでこのように言語を考えてみると、われわれより脳の大きな生物はより”アドホックに”自然を捉えるかもしれない。)
 さて、言語的推論が知覚から行動へと至る変換のパラメタにすぎないということは、言語的推論はわれわれの知識を決して増大させないということを意味する。言葉の意味は、これまでに(適切であると)経験した知覚と行動のセットを結ぶよう調整されているのであり、ある程度の汎化はしこそすれ、まったく新しい状況においては、入力から正しい出力を得ることは不可能である。C.S.パースは「経験科学は数学的論証によって拡大され得ない」と述べているけれど、これはそういう意味なのだと僕は解釈している。数学に限らず言語的論証の精度は、真に新しい状況においてはほとんどランダムに近い(逆を言えば、思考の結果が高精度で妥当するような場合には、それは実は真に新しい状況ではなかったということである)。実際、ある事態を説明するモデルがあるときに、その事態とまったく逆のことを同じ程度の説得力でもって説明するモデルが存在することがある。特に人体や社会といった複雑な現象を対象とする場合にそうしたことが起こりやすい。だが、知覚し行動し結果を評価するというループを繰り返す中で、より有用な行動を導く変換により大きな説得力を感じるよう、われわれの言語は変化してゆく。事実僕らは「雷様」というモデルにたいした説得力を感じない。状況を限ればそうした説明でもたいした問題はないのにである。われわれの言葉は、それを思考に使用する経験を通じて、その機能を変化させていくのだ。言語が社会的なものであることが、つまり音的ないし視覚的記号としての言語がある程度固定的であることが、この事実を見えづらくしているけれども、それぞれの単語が思考において果たす役割は、個人の内側では変化してゆくのである。
 結局、正しく行動するためには、ただ考えるだけではダメだということになる。探索し経験し評価して自分の言語体系を更新していかない限り、現実における行動能力は向上しない。いくら言葉で考えようと、未熟な言語の上で導き出される結論は、現実的な妥当性を欠いている場合が多いのだ。僕はちょっと引き篭もってものを考えすぎたのかもしれないな、と思う。自分には、(現在の自分の言語における)言語的正当性に固執するあまり、思考の実際的効用を無視しがちなところがある。やらねばならないのはむしろ、有用な思考を正しいものだと感じられるように言葉のほうを更新することなのだ。そして自分はたぶん、自分の言葉をアップデートすることがとても苦手なのである。たとえば僕は数学ができない。証明を読んでも、なぜこれで論証が尽くされるのか、べつの解釈があるのではないのかと考えてなかなか納得に至らない。だが数学を学ぶということは、そうした論証を妥当だと感じられるよう自分の言語体系を更新することなのだ。そこで必要なのは、ただ考えるだけでなく実際に行動し評価することである。僕は面倒くさがりなので相当に興味があるものでない限り自分から手を動かしたりしない。そういうわけで出来ることと出来ないこととが極端に分離することになる。面倒くさいなーもう。

 と、このように言葉で考えることもまた。