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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0213

卒業論文 哲学

 卒論の口頭試問が終わりました。いったいどんなダメ出しを食らうのだろうと戦々恐々としながら行ったらわりと恙無く終了しちょっと拍子抜け。主査の先生から「一つの哲学としてちょっと感動した」と言ってもらえたのは嬉しかった。まあ所詮は学部の卒論だから期待値は低かったのだろうけれどもそれでも。しかし一番面白がってくれたその教授がプラトン主義者だったというのはちょっと面白い。有効な論敵についてはやはりちゃんと考えているということなのだと思う。彼は物理学や数学が「きわめてうまくいっている」ことを引き合いに出し、ウィトゲンシュタイン的な考え方とプラトニズムとはまだ五分五分な状況だと言った。僕ももちろん、言語ゲームを支えている方の自然がなんらかの意味で実在論的である可能性(それについて語ることは僕からすれば不可能なのだからこういうのはちょっとおかしいが)を否定はしない。しかし言語ゲームに登場する方の自然はやはりたんなる道具に過ぎず、ただそのように振る舞えばこのような事態が引き起こせると教えるのにすぎない。もちろん、道具の巧妙さに、手先の器用さに際限がないという意味では、科学はいくらでもその物質操作能力を上げてゆくだろうと思う。でもまあそれだけだよねと僕は思うのだ。ここで進化論的な例えを持ち出すのはちょっと卑怯かもしれないが、原初の言語は、状況に対応する鳴き声だったのだと思う。危険だから逃げろとか、こっちへ来いとか。で、その鳴き声が構造化し、それにともなって対象が分節化されていった結果として、今のわれわれの言語があるのだと僕は考えている。ウィトゲンシュタインもまず命題があってそれが対象へと分析されていくのだと言っていた。それも似たような話だ。僕らの鳴き声はきわめて複雑に構造化されていて、まるで事態を「記述」しているかのように見紛われるが、やっぱりそれは鳴き声にすぎない。いまだ僕らは鳴いているだけで、ねこがにゃーと鳴くのと本質的に変わらない。そんな僕らがいったいどうしてほんとうの〈自然〉を扱いうるのか、僕にはまったく希望が持てないのである。超越に向けてジャンプするための足は、僕らには備わっていない。

せっかくなので公開しておく。

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