Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0304

 4月からはひとまず計算機巫女業をやって食べていきます。kaggleのData Science Bowlで優勝して賞金で生きていくというのも考えているけど、流石にそれは厳しそう。

 自分が物事を後回しにしてしまうのは、正しい後回しの仕方を知らないからなのだな、ということを思った。TODOリストのすべてが短期記憶上に乗っていて、作業領域を圧迫しているのだ。普通の人たちは、短期記憶に乗り切らない情報はその都度長期記憶やメモなどに退避させていて、必要でない限り思い出さないのだろうと思う。だから限られた短期記憶を広々と使うことができる。一方僕はその時の生活のすべてが短期記憶上に展開されていて、ある物事について考えている間も、べつの用事や問題について完全に忘れることはない。忘れるときは情報が揮発するときなのだ。だからやるべきこと同士が干渉しあって何もできなくなってしまったり、完全に失念してしまったりする。たぶん人間関係などについても似たようなことをやっているのだと思う。僕の友達の少なさやある種の薄情さは、長期記憶の欠陥に原因がある気がしている。どうしたものかしらん。

 「虫眼鏡で蟻を観察している」と言う代わりに、「蟻が前に置かれたときの虫眼鏡を観察している」と言ってならない道理はない。何が観測対象であり何が観測機器であるのかの線引は畢竟恣意的なものだ。目に見えない現象を明らかにする特別の観測機器であると思われていたものは、在る現象を惹き起こすための特別の道具であるのに過ぎないのかもしれない。

 「世界は立方体の組み合わせでできている」という認識と「われわれの観測は世界を格子状に分割する」という認識との間に本質的な優劣はおそらくない。というのもわれわれが世界を分割する仕方はわれわれの自由にはならないからだ。どちらも〈正しい〉認識ではないというのが、本当のところだろう。言語に世界を既述する能力などないのだから。原子論も全体論も、ただ言語的構成物の極限であるに過ぎない。どちらを選ぶかはただ言葉のうちに生きるわれわれの好みに委ねられている。