Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0408

 哲学は自己免疫疾患です。

 システマティックに生きているとすぐ人生が今日×N日になってしまう。より効率的に生きてゆくために作り出された仕組みが、人間を生きることから締め出してしまう。問題なのはここで「さあ非効率なことをしよう、不合理なことをやろう」と意図的にやっても無駄なところだ。それらは意図の外から世界の意志によって現れてくるものでなくてはならない。とか考えていて、結局のところ人生に意味をもたらすのはある種の「不安」なのかもしれないと思った。ハイデガーじゃん(読んだことないのだけど)。

 カントの認識論は、パターン認識を喩えに用いればわりと平易に説明できるのではないかと思った。パターン認識では特徴量を用いてデータの中に特徴を見出すわけだけれど、ここで認識されているのはデータの中の特徴”そのもの”ではなく、データと特徴量の関係である。

 形而上学について考えることの形而下における意味、ということを考え始めるとどうもそこから先に進むことのできないぶよぶよした壁みたいなものに突き当たる。一時的に真理であったものたちがいつの間にかただの態度表明に堕している。やっていくことができるならば内容に眼目はないのだと言ってみて、なんでやっていこうとしているのかわからなくなる。考えるな、直観しろ、その限りにおいて世界は極彩色の意味をまとってお前の眼前に存在している。だからどうした?

 そこから矛盾が導けるからといって矛盾しているわけではない。世界の無意味さが思考によって暴かれるのではなく、ある種の思考が世界を無意味にするのだ。人生を含むたくさんの物事は、引き延ばせば交わってしまう線分をそのままにしておくことで辛うじて成り立っている。そして僕らはときどき、それらを引き延ばして交わらせてしまう。

 中学の時に「高校への数学」の裏表紙で見て気になっていた図形(たぶんSEGの広告だったと思う)がSteiner chainというものであることを偶然知った。10年ぶりの再会である。というちょっといい話(?)。