Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0917

 言葉を用いて相貌を伝えることは出来ない。言葉は相貌の上に築かれたものだからだ。林檎の相貌を知らない人に、いくら言葉を尽くしたところで、実際に林檎を目にしたときの「その」感じを伝えることは不可能である。もちろん林檎の相貌を構成する要素的な相貌――丸さ、赤さ、空間的な延長など――をすでに共有している場合は、それらを組み合わせることによってある程度までは伝達可能であるけれども。赤ん坊が言葉で教わることなしにさまざまな相貌(概念)を獲得していくことからも明らかなように、相貌の獲得は多くの場合、言葉の外側で行われる。その取っ掛かりとなるのはおそらくある種の予測である。一瞬後の未来を予測するためには、外界をどのように構造化すればよいか。この問いを解くことがわれわれに世界と対象を与えるのだ。空間的に強く結びついた領域には一個の表現を与えたほうが都合が良い、という風に。(ただしここでいう「未来」や「予測」といった概念もまた言語ゲームを支える自然において〈未来〉を〈予測〉するなかで得られたものである。と僕は思う。)
 ではわれわれは言語によってなにを伝えているか。大抵の場合は、すでに共有されている相貌の組合せ方である。知らない料理のレシピは新しい情報ではあるが、それを構成する要素――切る焼く、食材など――はすでに知られている。学ぶー教えるという表現が通常意味しているのはこの種の伝達である。この種類の伝達は、ある意味では、真に新しい知識を伝えてはいない。
 だが言語によって新しい相貌を学ぶことが一切できないかというと、そうではない。それはその言葉の意味するところが理解できないとき、すなわち言語が言語として機能していないときに起こる。意味の分からない言葉、それは空気の震えやインクの染み以上のものではないのだが、それらによってどうにかして予測(発話者の振る舞いや文章の続きなど)を為そうとするときに、その空気の震えやインクの染みからどのような意味を読み取る”べき”かが推定されるのである。

 知識を得ることには興味がないけれど、新しい相貌を獲得するのはけっこう好きだと思う。見えなかったものが見えるようになる感覚。世界に未知の輪郭線を書き入れること。