Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0918

 なにもしないまま時間が過ぎていくこの感覚を忘れかけていたことに気付いてぞっとしている。なによりも慎重に執り行われるべき、自分が自分であるための儀式が廃れていく。現在は数直線の一点に成り下がり、混沌は整理され、空白は予定で埋まり、はにかみは気恥ずかしさに変わる。詩人はそうやって死ぬ。ひとまとまりの暇さえあればいつだってここに戻ってこられると、そういう自分への信頼はあるのだが、その暇のほうがどんどんなくなっていく。行動予定表の合間を縫って時間を作ってみたところで、それでは意味がない。暇は与えられるものでなくてはならない。つくられた時間は退屈を生まないから。生きることが長い暇つぶしであるのなら、暇であることを忘れられたそれはなんだ?

 C.S.パースbotが「真理は、もしそれに基づいて行為するならば、我々が目標とする地点まで我々を運んでくれるという点においてのみ偽りから区別される」と呟いているのをみて少しうれしくなる。われわれは宇宙の使いみちを知っているだけで、宇宙について何かを知っているわけではない。

 今日のような青空を見るために生きているような気がする。