Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0913

 何もしたくないときに何もしないでいられる人生にしたい。

 僕らは"ほんとう"の世界については何も知れないだろうけれども、僕らが描いた世界(あるいは世界が描いた世界に言ってもよいかもしれない)についてならば、限りなく精密に知りうるだろう。僕らは世界の意図を知らないが、世界の意図した世界の意図を知っている。それで十分ではないか。

 「この世界のいやらしさの半分くらいは、自分たちの本物のエゴを用いていない人々によって生み出されているんだ」というサリンジャーの言葉をときどき思い出す。自由と責任、あるいはエゴと処刑を対置することによって運営されているこの社会は、エゴを放棄するという戦略に対して本質的に脆弱性を抱えているのだ。

0831

 メインPCが突然故障したので修理を依頼していたのだけど、今日業者が引き取りに来た。調べたところわりと頻発している不具合らしく、購入前の調査が甘かったなと反省しつつ保証期間内に故障したのは僥倖だったなと思う。ただしばらくメインが使えないのであまり重たい計算を手元でやることができない。ちょっと困る。


 音声が空気の震えであり文字がインクの染みであることからわかるように、言葉はひとつの事実である。だから事実と言葉の記述的関係は、実際は事実と事実の対応関係であり、この対応関係を生み出すものが論理である、というのが前期ウィトゲンシュタインの哲学だった(と僕は認識している)。世界はあまねく論理的であり、事実と事実は論理的関係にあって、それゆえ言葉は世界について語りうる。例えば赤色と青色とが視野の同じ位置を占めることはないということは論理的制約であり、つまりここでは青色が赤色について〈語って〉いるのである。これと同じことが、つまり青と赤との論理的関係に類比的なことが、言葉という事実と現実という事実の間に生じており、それゆえに言語は現実に触れている、これが前期ウィトゲンシュタインの言語観だった。ところが後期に至ってウィトゲンシュタインはこの考えを捨てる。論理的関係は文法概念に回収され、すべてはゲームになった。言語はひとつの事実であるという基本線はそのままだが、事実と事実の関係は、実在論的な論理に基づくものではなく、ただ「文法的なもの」とされたのである。ここにおいて言葉は世界について語るものではなくなった。言葉と事実の関係は、事実と事実の関係と同じく、「そのように見出される」だけのものになったのである。そして事実と事実の関係が文法的であるということは、ある事実を世界から切り抜く輪郭線もまた文法的であるということを意味し、ゆえに「本質は文法の中で述べられている」という哲学探究の言葉へと繋がる。

 ところでこの「本質はゲームである」という認識は、井筒俊彦が「意識と本質」において禅のところで述べていた「文節Ⅱ」に相当すると思う。禅が無分節の境地を経て体感的に分節Ⅱに辿り着くのに対して、ある種の哲学者たちは思考でもって分節Ⅱを推定する。ちょっと面白い。

 ヘッセ「シッダールタ」を読んだのだけど、作中でこんなことが言われていた。「知識は教えることができるが、知恵は教えることができない」。知識というのは共有された特定の文法における語りであって、知恵は文法そのものの更新であると考えるとかなりしっくりくる。

 ところで言語ゲームという思想もまた特定の言語ゲーム上で語られていることに注意せねばならない。だから無分別智も、それが主体の選択に影響を及ぼす以上は〈真理〉などではなくひとつの「生きる知恵」にすぎないのである。「自分は誰かの役に立っている」という認識が励みになる人がいるのと同じ意味で、「一切は空である」という認識が助けになる人もいるというただそれだけのことなのだ。煩悩という壁を打ち砕くつるはしが無分別であって、これは例えではない。煩悩も言葉もひとつの事実であるという意味では。

 「真理は言葉で記述できる」ということは「真理は眼で見ることができる」というのと同じくらい馬鹿げている。


 ふとニューラルネットの解説記事でも書いてみようかなと思って、すぐに思い直した。MSCOCOからの逃避行動であることを悟ったからである。もう時間も残り少ないので、やれることをやるほかない。がんばる。


 参考文献として水本正晴「ウィトゲンシュタインVS.チューリング」を買った。ウィト氏の数学観を大きく扱った日本語の本のうちわりあい軽く読めるものはこれしかないっぽい。主題が認知とかAIとかの話なので人工知能の棚に置いてあったのだけど、周辺の本を見てなぜだかちょっとつらい気分になった。

0827

 物理学が現象を高精度で予測できることは、すべては解釈でありゲームであって世界と直接関わるものではないという認識に相反するように思われる。われわれは世界について何か本質的な知識を掴んでいるから、それができるのだと言いたい気持ちになる。とくに数式や言語といった「抽象的」な形式をいちど経由することが、その気持を強める。けれども考えてみれば「抽象化する」という営みも一つの物理現象なのであって、だから物理学が砲弾の射線を予測できるということは、本質的には「一発目の砲弾が二発目の砲弾の射線を予測している」ことと同じなのだ、ということを思う。予測の精度を増すことは、一発目と二発目の発射条件を限りなく近づけることに対応している。ところでここで「一発目の砲弾が一発目の砲弾の射線を予測している」と言ってみても別に構わないということが重要であって、そういう意味では、物理学の予測精度に際限はない。言い換えれば、予測精度が無限に向上しうるということは、物理学が世界に「触れている」ことを意味しないのである。

 物理学は世界が時空的な繰り返しの構造をもっていることを前提している。太陽について成り立つことはシリウスでも成り立つし、去年起こったことは今年も起こりうる。だが一方で真の繰り返しなど起こるはずがなく、ゆえに繰り返しはある視点から見て繰り返しであるのにすぎない。同一性の問題と同じである。生き物という枠組みから見れば、ふたつの事象を同一のものとして扱うのは(マッハ的にいえば)生命活動における経済的な理由によるのであって、つまりそれが視点・パースペクティブということになるのだが、それらをひっくるめた宇宙的な枠組みから見れば、パースペクティブもまた生じては消える瞬間的な安定状態にすぎない。世界の分節化というわれわれの営みもまた、宇宙からすればエネルギーの淀み・偏りでしかないのだ。そしてその偏り方に際限がないという意味おいて物理学は際限ない予測精度を獲得しうる。それは結局のところ世界に対する人間性の押し付けなのだけれども。

lucidity

lucidity【名詞】

1清澄,透明.

2明瞭,明晰(めいせき).

3(精神病患者の)平静,正気.

 僕以外の人間だって「私だけの赤さ」について語ることができる、だからそれは本質的な問題じゃない。だからといって誰にでも〈この私〉があるというわけでもない。意識とか私とか、そんなのはただの言葉だ。言葉は現実を記述するものではなくむしろ現実の一部なのであって、われわれの認識をも裡に含んだ連続体としての宇宙が、なにごともなく進行している。僕らは知らない、知りえないだろう、なぜなら「知」は一つの現象であり、恣意的な分節線に区切られた領域であって、この世界のカテゴリ表に載っているようなものではないのだから。知っているという状態は、そのような状況でそのように振る舞えるということだ。手を放せばりんごが落下するというのと同じこと。知は、理解は、静的な状態では決してない。それらはつねに適用を前提している。ある計算式がなにを計算しているのか、それ自体は計算ではない。つまりあらゆる知識は答えではなく道具であって、身体の(ひいては世界の)、そしてそれが生み出す欲望の(あるいは意志の)延長である。僕らは関数みたいなものであり、知識はそのパラメタで、同時にそれらは宇宙というより大きな関数の部分をなしている。宇宙、それは熱死へと向かう最適化計算だ。生命とはそこにおいて生じた小さな淀みであり、結局のところ終わりに向かうひとつの経路であるにすぎない。そこに干渉することはできない、なにせいかなる文字列もそれが書かれたページを破ったりはしないのだ。これは一つの比喩である。だがわれわれの認識において比喩でないものなどなにひとつなく、このように書くこともまたそうであり、つまり比喩というのも比喩であり、あちら側へと続く扉が見えていて、しかしそこへ至ることもかなわず、これもまた比喩でしかありえない種類の比喩である。淀み、偏り。それが僕らの意志ならば、それを生み出した一連のエネルギー最適化もまたそう呼ばれるべきであろう。つまり意志とは安定的状態への移行であり、乱雑さへの頽落であり、秩序はそれに抵抗するものではなくむしろその歴史の一ページにすぎない。僕らはなにも知らない、知りえないだろう。僕らはなにもなさない、なしえないだろう。起こっていることが起こっており、そこに私はいない。誰もいないし何もない。そしてそんなことは僕のささやかな生活になんの関係もない。

0815

 MSCOCO Challengeは難航しています。なかなかきれいにInstanceを区別できない。論文を眺めた限りでは、最近の個体認識可能なSegmentation用のアーキテクチャはおおむね、ある個体における各要素の相対的位置づけを予測したのちそれらを統合するという方針を取っている。僕はそれをもう一段抽象化できると考えていて、実際ある程度はうまくいくのだけれど、しかし状況が少し複雑になるとたちまちダメになってしまう。

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 この犬を個体として分離できたときは勝ったと思ったのだけれど、現実はなかなか厳しいようだ。うーん……。

0811

 りんごは実在するだろうか?いいえ、りんごはアトムの寄せ集めにすぎない。ではアトムは実在するだろうか?わからない、というのもアトムが実在するというときの「実在」は結局のところりんごの「実在」と同じ実在であるから。われわれに与えられている実在の文法は、りんごに実在を認めてしまうような性質のものであり、たとえ「りんごは実在しない」といくら言ってみたところで、その文法が変化するわけではない。それがそれとして見えるということが実在の意味なのであって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

 要素に還元するというのも一つの思考の仕方であって、別により現実に近づくという性質のものではない。もしそれがそれ以上の分割を許さないものであったとしても、それが〈実在する〉ということにはならない。

 イグノラムス・イグノラビムス。けれども僕は物自体としての世界と私を信じている。


 帰省しています。耳に入ってくる会話量がとつぜん増えたせいかすぐ頭が疲れてしまう。こんなところで生きていたら人は他人の言葉をノイズとしてフィルタするようなってしまうのではという気がするし、実際うちの人達にはその傾向があると思う。コミュニケイション過多というのは一つのディスコミュニケイションの形である。酔いによって聴力が下がり大声を張り上げる飲み屋の客達が思い浮かぶ。

0806

 現実をどこまで数学に近づけられるか。条件を厳しくしてゆけば実験は(正しい)数学的モデルに無際限に近づいてゆくという予感をわれわれは持っており、しかし無限に条件を厳しくすることはもちろんできない。ここで「無限に条件を厳しくする」ということは一体何を意味しているのか、と問いたい。それはただの文法的操作なのではないか。われわれは何らかの意味で文法的操作の極限を考えることができる。論理とか数学とかいった必然性の眷属たちはこのあたりの登場人物だ。たとえば床に書かれた円と猫の関係を考えてみよう。猫は円の内側にいることができるし、外側にいることもできるし、縁を跨いでいることだって可能である。だが猫が限りなく小さければ、「猫は円の内側と外側のどちら側かに存在する」とわれわれは言いたくなる。だがそのような事態はそもそも思考不可能だったはずなのだ。にも関わらず、「猫が大きさを持たなければ」という想定をしたときに「猫は円の内側と外側のどちら側かに存在する」と言いたくなるこの傾向性が、つまり気持ちが、論理を作り出していると言いたい。そのような極限を想定できるからといって、それが〈実在する〉とは言えないのだ。あくまでも言語は言語のうちで閉じていて、世界に触れてなどいない。ウィトゲンシュタインの「無限は限りなく大きな数などではない」とか「数列の次の項を決めるのは直観というよりもむしろ決断である」とかいった主張の背景には、おそらくそんな気持ちがある。


 シン・ゴジラを観た。昨夜は「明日きっとゴジラを見るぞ」という気持ちで寝たのだけど、朝になってみるとこれ自分には楽しめないたぐいの映画なのではという予感がむくむくと立ち上がってきてしばらく逡巡していた。いちおう池袋まで出てみたは良いものの、一度迷いはじめると他にやりたいことがぽつぽつと浮かんできて、そういう状況に僕は弱い。いったい自分は何がしたいのだろうという反省のループが思考を占拠して、それでしばらく立ち竦んでしまった。で結局このままぼーっとしているくらいならということで映画館へ行った。ちゃんと面白かったので良かった。

 ただインターネットの人々が絶賛しているほどには映画を楽しめなかった、というのが正直なところではある。僕が捻くれているからかとはじめは思ったのだけれど、しかし同じくやたら評価の高いガールズアンドパンツァー劇場版については自分も高く評価できているので、たぶんそういうことではないのだろう。おそらく個人と集団の関係の描かれ方についてちょっとしっくりこない部分があるのだ。なんというのかな、たとえばGuPの場合は大洗廃校の阻止という目的は各キャラクタが共有しているけれど、でもその動機はもっと(極端にと言っても過言ではないかもしれない)個人的なものだ。誰もが好き勝手に闘っている。それが僕のような非社会的な人間には心地よかった。少なくとも、物語の他の要素を邪魔しなかったのである。ところがゴジラの場合は、しばしば「日本のために」ということが言われる。それを聞くたびに、冷めるとまではいかないまでも、ちょっと(なにか違う……)と感じてしまう。別に日本が嫌いということではない。君たち本当にそんな動機でやってるの、という疑念がどうしても湧いてしまうのだ。だから東京の除染に光明が見えた際の尾頭さんの笑顔にも違和感があった。えっそんなキャラだったの、もっとこう単に面白いからゴジラ対策やってるんじゃないの、という感じの。うーん、やっぱり自分の頭がおかしいだけな気がしてきた、やめよう。

 画面構成とテンポについては、評判通り十二分に楽しめたと思う。「特撮にしては」という枕詞なしに素晴らしい映像だった。「CGスタッフが物理シミュレーションで考えるのに対し庵野監督は1秒24コマの静止画の連続として捉える」という話を前に読んだが、こういうことかとちょっと納得した。戦闘描写がいちいち格好いい。ガスバーナーみたいな(伝われ)熱線の描写も良かった。ちなみに自分はエネルギー兵器の描写についてちょっとしたこだわりを持っている。原点はもちろん(?)ジェノザウラーの荷電粒子砲である。

(0808追記)

 劇中、「私は好きにした、君らも好きにしろ」という台詞がある。ポジティブに解釈されているこの言葉だが、そもそも人間はつねに好きにしているはずなのである。われわれのあらゆる判断の根底には好悪がある。どんなに非主体的に見える行動であれ、その行動を彼に取らせたのは彼の好悪の基準なのだ。だから結局「好きにしろ」というのは「好きにしている風の行動をせよ」ということであって、つまり規範・態度の押し付けにほかならない。僕がゴジラに対して抱いたモヤモヤはたぶん、言われなくとも自分(を含めたすべたの人)は好きにしている、あなたの好みを押しつけるな、という辺りにまとめられるだろうと思う。もちろんこの台詞をもっとニュートラルに解釈し、登場人物がただ好き勝手やった結果としてゴジラが倒されたというふうに映画を見れば、とくに問題はない。ただそう解釈するにはちょっと演出がくどすぎたと思う。味付けの濃すぎる作品は少し苦手なのだ。