Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0211

 素敵な問いを建てられる人間になりたい。


 最近ずっと鬱っぽかったのだけれど、試しにDMAEを買って飲んでみたら随分元気になった。神経伝達物質の原料が足りていなかったらしい。やっぱり食事は大事だなあと思うわけだけど、僕のような人間の場合、食事のために割けるエネルギィはそれほど多くない。ので結局サプリメントに頼ることになる。

 抑うつにはいくつかの種類があるのだということが分かってきた。まず脳が乾いている感じがあって思考力が減退するもの。これは前述の栄養不足であることが多い。アセチルコリンの原料を多めに食べると元気になる。それから、考え過ぎによるもの。これは脳が焼けている感じがする。不安などによって特定の思考をひたすら繰り返していると、脳が疲労して何もやる気になれなくなる。これも結局は脳内物質の使いすぎということになるのかも知れないけれど、まずはこの無駄な思考ループを止めるために抗不安薬などが必要になったりする。あとは瞑想とか。他には、体液循環が滞ることによるもの。走ったりお湯に使ったりすると治る。あと睡眠不足でも抑うつ状態になることがあるけど、これは本質的には脳の制御の不安定さという感じがしていて、抑うつはその状態のひとつであるぽい。睡眠不足では思考の過激さが増すことが経験的に知られている。で、こういう状態が暫く続くと、脳に器質的ダメージが蓄積して抑うつ鬱病に転じるのだと思う。特に精神医学的な知識があるわけではないし、きわめて個人的な感覚に基づくものなので、かなり間違ったことを言っているのかもしれないが、僕にとってはまあまあ有用な分類である。わりと自明なこと言った気もする。


 小さい頃に、遠くにある天体ほど地球から速く離れていっているという話(ハッブルの法則)を知ったとき、ちょっとした違和感を覚えた記憶がある。今になって考えてみるとそれは、地球が宇宙の中心にないとそのようなことは起こらないのではないか?という違和感であった。これに対する答えは、宇宙空間自体が全ての方向へ等しく膨張しているということであるらしい。空間自体が広がるというと中の物質も同様に広がって結局見た目には何も起こっていないことになるのではという気もするのだが、詳しいことはわからない。しかしまあ物質はそのままで空間のみが広がると考えると(しかしこれが一体何を意味しているのかやはり僕にはよくわからない)たしかに星たちは距離に比例して速く離れていくことになる。ところでこのように空間が広がっているのであれば、たとえば僕の身体を構成する粒子たちも空間膨張の圧力を受けていることになるのだろうか。そうならばそれは観測可能なのだろうか。という疑問が浮かんでくる。それから空間の膨張に対して物体が同じ形を保っているということは、物体を構成する粒子は「内向き」に等速運動していることになるのだろうか、とか。あるいは、空間が膨張しているという代わりに、あらゆる粒子の間には距離に「比例」する斥力が生じると言ってはならないのだろうか、とか。凄まじく長い糸で2つの重りを繋いだら、空間の膨張圧で糸がちぎれたりするんだろうか。ちゃんと物理を勉強すれば分かったり分かっていないことが分かったりするのだろうけれど、それにかかる学習コストは好奇心が生むモチベーションを容易に上回る。ので結局知らないままなんだろうと思う。神よ僕にすごい知能を。


 何かを知りたいと感じるためには、わりと複雑な条件を満たす必要がある。ということを思う。解答の形式が明確な問いほど好奇心を刺激しやすい。だが真に創造的な問いは、それに解答するにあたってあたらしい形式を生み出すことが求められるようなものである。そしてそれが達成されたとき、問いはもはや問いではなくなっているだろう。


 さてここからが本題。サーバルキャットを飼うにはどうすればいいんでしょうか?

0131

 価値概念の中心にあるのは有限性とその所有だと思うのだけれど、コンピュータというのはそれと真っ向から対立するデバイスである。いちど情報化されたものはいくらでもコピーし転送できるわけだから。だから価値という概念を情報社会の中で維持するためには、そもそもコンピュータで扱えないものを使って価値を生み出すか、なんらかの仕方でコンピュータの能力を制限するほかない。で、コンピュータの能力を制限する方法としてはまず暗号化があるわけだが、暗号化には誰か鍵をかける人が必要であり、ここに(鍵を知っている人と知らない人という)立場の非対称性が生まれる。このような仕方でコンピュータを制限したところで、既存の価値を守ることは出来ても、それ自体が新しい価値になるようなことはない。それでは価値の問題から信用の問題に転じてしまう。ではこうした非対称性のない、つまり特権的立場を必要としない制限の仕方はあるのかというと、たとえばBitcoinなどで使われているブロックチェーンがそうである。ブロックチェーンは本質的には、各コンピュータを競争させることによってコンピュータの能力を制限する仕組みなのだ。と僕は解釈している。ただし僕にはそれが巷で騒がれているほどに良い仕組みだとは思えない。やはり目的を達するにあたって犠牲にしているものが大きすぎると感じるのである。ここでより簡単な方法で、立場の非対称をつくることなくコンピュータの能力を制限できれば、それこそすごいことが出来ると思うのだけれど、僕の小さい脳みそではちょっと思いつかない。原理的に不可能なのかもわからない。誰か思いついたら教えてください。

0129

 人間は(というか生物は)知覚を行動に変換する関数として捉えることが出来ると思う。で、単純なフィードフォワードネットワーク(つまり直観)では計算の深さに限界があるから、繰り返し構造を導入して効率化を図ったものが言語である、と考えてみたい。ここで僕が意図しているのは、言語は何かを記述するものではなく、あくまでも知覚を行動に変換する関数の内部状態に過ぎないということだ。僕らは現象をさまざまな方法でモデル化するが、そのモデル化は抽象を含んでいる以上、真に現実に対応するわけではない。だがそうしたモデルはしばしば有用である。このことを説明するために、自然はある種の階層構造を持っているのだと考える人たちがいるけれども、それに対して僕は、そうしたモデルは自然を記述しているのではなく、知覚から妥当な行動を導くための(有用な)道程のひとつなのだと考えたいのだ。たとえば「雷様はへそを取る」という説明であっても、電磁気学と医学による説明であっても、雷鳴という聴覚刺激から耐雷姿勢(へそを守るようにしてしゃがむ)を導くことは出来る。その意味でこの2つの説明は等価である。どちらが正しいとも間違っているとも言えない。そもそも自然法則を”完全に”把握しているわけではない以上(僕の考えに従えばそのような事態はありえないわけだが)、どちらも間違っているとも言える。だがそれらは役に立つ。もちろん、その適用可能範囲には違いがあり、その範囲を拡大しようと頑張っているのが、人類の学的営みであるといえるかもしれない。より汎用性の高い変換規則を見つけること。(ところでこのように言語を考えてみると、われわれより脳の大きな生物はより”アドホックに”自然を捉えるかもしれない。)
 さて、言語的推論が知覚から行動へと至る変換のパラメタにすぎないということは、言語的推論はわれわれの知識を決して増大させないということを意味する。言葉の意味は、これまでに(適切であると)経験した知覚と行動のセットを結ぶよう調整されているのであり、ある程度の汎化はしこそすれ、まったく新しい状況においては、入力から正しい出力を得ることは不可能である。C.S.パースは「経験科学は数学的論証によって拡大され得ない」と述べているけれど、これはそういう意味なのだと僕は解釈している。数学に限らず言語的論証の精度は、真に新しい状況においてはほとんどランダムに近い(逆を言えば、思考の結果が高精度で妥当するような場合には、それは実は真に新しい状況ではなかったということである)。実際、ある事態を説明するモデルがあるときに、その事態とまったく逆のことを同じ程度の説得力でもって説明するモデルが存在することがある。特に人体や社会といった複雑な現象を対象とする場合にそうしたことが起こりやすい。だが、知覚し行動し結果を評価するというループを繰り返す中で、より有用な行動を導く変換により大きな説得力を感じるよう、われわれの言語は変化してゆく。事実僕らは「雷様」というモデルにたいした説得力を感じない。状況を限ればそうした説明でもたいした問題はないのにである。われわれの言葉は、それを思考に使用する経験を通じて、その機能を変化させていくのだ。言語が社会的なものであることが、つまり音的ないし視覚的記号としての言語がある程度固定的であることが、この事実を見えづらくしているけれども、それぞれの単語が思考において果たす役割は、個人の内側では変化してゆくのである。
 結局、正しく行動するためには、ただ考えるだけではダメだということになる。探索し経験し評価して自分の言語体系を更新していかない限り、現実における行動能力は向上しない。いくら言葉で考えようと、未熟な言語の上で導き出される結論は、現実的な妥当性を欠いている場合が多いのだ。僕はちょっと引き篭もってものを考えすぎたのかもしれないな、と思う。自分には、(現在の自分の言語における)言語的正当性に固執するあまり、思考の実際的効用を無視しがちなところがある。やらねばならないのはむしろ、有用な思考を正しいものだと感じられるように言葉のほうを更新することなのだ。そして自分はたぶん、自分の言葉をアップデートすることがとても苦手なのである。たとえば僕は数学ができない。証明を読んでも、なぜこれで論証が尽くされるのか、べつの解釈があるのではないのかと考えてなかなか納得に至らない。だが数学を学ぶということは、そうした論証を妥当だと感じられるよう自分の言語体系を更新することなのだ。そこで必要なのは、ただ考えるだけでなく実際に行動し評価することである。僕は面倒くさがりなので相当に興味があるものでない限り自分から手を動かしたりしない。そういうわけで出来ることと出来ないこととが極端に分離することになる。面倒くさいなーもう。

 と、このように言葉で考えることもまた。

0110

 世界は本のようなもので、そこには喜びと悲しみ、信仰と懐疑、自由と必然、その他ありとあらゆるものが書かれているけれども、しかしこの本には読み手が欠けている。未だかつて世界を読んだ者はいないし、これからも決して現れない。閉じ込められた文字たちの叫びは、紙面に傷一つ付けられやしない。

 バイト帰りに『これからのウィトゲンシュタイン』という本を立ち読みした。水本氏の「ウィトゲンシュタインゲーデル: 対話編」を一通り読む。毎度のことながら彼の書き方は少々ウィト氏に好意的すぎるきらいがあって、読んでいてなんだかこっ恥ずかしい気持ちになるのだが、まあ言っていることはよく分かる。ただ数学基礎論の素養があまりないので数学的な議論はよく理解できなかった。ちょっと寂しい気もするので勉強してみようかなと思う。たぶんしないんだろうけれど。僕は極端な道具主義者、われわれがそのような道具を獲得することもまた自然史の一部に過ぎないと考えるような道具主義者であって、それ自体のために何かを勉強しようという気にはなかなかなれない。それは僕にとっては乗りもしないのに車の免許を取るようなものである。

0107

 われわれは宇宙の使いみちについて知っているだけで、宇宙については何も知らない。

 真に考える価値のある問題のほかに何も考えたくないと思う。しかし真に考える価値のある問題などあるのか。すべての哲学的問いが言語論的なのであれば、つまりすべての答えが説明であって宇宙の使いみちを与えるものにすぎないのであれば、われわれに与えられる解決が僕を納得させることは決してないだろう。そしてこれまでに僕が納得していないという事実が、すべての問いは言語論的であるということを示しているように思われる。起こっていることが起こっていて、それらはつねに一回的で、しかし僕らはそこに境界を引き、繰り返しを見出す。起こりうることを分類し、目的に応じて利用できるようにする。それらの事象がいったい〈何〉であるのか、そんなことを問うのは不毛である。なぜならそれらの事象を世界から切り出してきたのはわれわれの目的なのだから。だから、強いていうならばそれらは、僕らの手足の遠い遠い延長。僕の手が石を放り、放られた石ころは意志をまとって、手の代わりに獲物を仕留める。石ころは数式や計算機や、原子炉へと姿を変えて、われわれの目的に追従する。物理法則を記述した方程式は、実は記述でもなんでもなく、ただこのように振る舞えばこのような事態を引き起こせるよと僕らに教えているのにすぎない。この世界には素粒子などなく、それら事態を素粒子として分節することが、僕らに世界への接し方を教えるのにすぎない。それらは、真理というよりはダンスの教本であって、そこには問いも答えもなく、ただ踊りの仕方が記載されている。
 時間や空間、赤さや痛み、それらもまた一種の(原初的な)ゲシュタルトにすぎないのだと思う。ゲシュタルトであり、ゲシュタルトを包む輪郭線でもあり、その輪郭線がまた一つのゲシュタルトとして把握されている。だから、AとBを境界付ける線分に対し「これは何」と問うたところで、AとBを境界付ける有用性を答えるほかないように、「赤さとは何か」と問うてみたところで色彩の有用性を答えることしかわれわれにはできない。そしてわれわれを境界付ける原初的有用性、生命という偏りそれ自体もまた、われわれには把握できない。ある石ころがなぜ他の岩盤から独立しているのか、問うても仕方がないように。
 おそらく言葉がなければ「赤はなぜ赤いのだろう」という問いは生まれなかった。「赤はなぜ赤いのか」という言語表現に意味を「感じて」しまうこと、それだけがこの問いを支えている。そしてこの意味という「感じ」と、赤さという「感じ」はおそらく同じ種類のものである。かつて「ウィトゲンシュタインはすべてを記述の次元で考えた」という表現を読んだとき、われわれの〈この〉実感は言語に還元しうるものではない!と思ったものだけど、今にして思うとその実感こそが言語の起源だったのだ。「「すると、あなたは、〈痛み〉という語が本来泣き声を意味している、というのか。」――その反対である。痛みという語表現は泣き声に取って代わっているのであって、それを記述しているのではないのである(『探究』244節)」。
 言語ゲームの中で語られる自然と、言語ゲームを支える自然とは、まったくべつのものである。もちろんこの区別も言語ゲームの中で語られているものにすぎないから、後者はただ「超越論的に」その存在を仮定されているだけで、そういう意味では、それを語ることにもまた〈意味〉はないのだけれども。時空や赤さはおそらく後者に属しているのだが、その性質の幾つかは、言語ゲームの中の自然にも立ち位置を持っているがゆえに混乱を生んでいる。「認識」が問題になるのは、そういう理由によるのだろう。「自分が何を認識しているか」を語ることが有用であったがために、そうなってしまったのだ。もし仮に自分の視覚が自分の「意のまま」になったとしたら、「赤の赤さ」は「手の形」が問題にならないと同じく、哲学の問いにはならなかったのではないかと思う。これもまあただの想像なんだけれども。

 卒業論文を提出しました。わりと雑なのでちゃんと単位もらえるかちょっと不安。まあ大丈夫だと思うんだけど。しかしまあ、ようやく解放された感じがあります。考えたいことを考えられるって素敵。

1201

 くるりくるり。無限小の円周を歩いて回る。


 孤独について考えていました。思うに僕は、あらゆる超越的なものたちを言語ゲームの内側に位置づけるにあたって、他者性という超越も退けてしまったのだと思います。何が言いたいかというと、他者というものもまた僕が世界を切り開いたあとにはじめて現れるゲームのコマにすぎない、ということです。僕自身がそうであるのと同じように。私は世界、世界はひとり。そんな気持ちで生きています。生きてゆきます。


 天才少女の檻の前には「目的を与えないでください」という注意書きが貼られている。


 新しい領域を探索する場合は”自然さ”にあまり拘らないほうが良い、というのが最近の学びである。学習とか理解といったものはいわば自然さの更新なのだから。


 哲学の問題はどれも抽象に端を発している。抽象化はつねにある視点と対応しているのに、人はしばしばそのことを忘れて、その抽象が独立の実在であると考えるようになる(「私」とか「時間」とか)。結果として、その抽象を適用可能な範囲を超えて使用してしまうことになり、矛盾なりアポリアなりが発生する。

 抽象とは認識そのものである。


 機械はプログラムに従っているだけで何かを理解しているわけではないと人はいう。だがそれを言うならば機械がそうであるのと全く同じ意味で僕らも何かを理解しているわけではない。違いは、僕らのプログラムにおいては「理解する」という言葉も命令として機能する、ということだけだ。


 良い冗談を言えることはとても大切なことなのだ、ということを思った。


「僕はいったい何がしたいんだろう」
「君が今まさにしていることさ」

 どうしようもないこと・この世界の本性に関わるものに対してネガティブな印象を抱いてしまうのは不幸なことだと思う。虚無を、欲望を、不自由を愛していかねばならない。「知性あるものは不可避の事象を憤ったりはしないものだ」とはカレルレン(幼年期の終り)の言葉。

1118

 物事を抽象化するためには、捨象される部分が一個の対象として"見えて"いなくてはならないということに気付いた。つまり抽象化においては瑣末な情報が落ちているのではなく、それらが(こう言ってよいのかはわからないが)無意識に回収されているのだ。個々の要素的段階が身体化され、意識することなくその流れを追うことができるようなってはじめて、それを抽象できる。重要なのは、いくら抽象したところで、その対象を認識するコスト自体は変化しないということである。たしかに意識的思考は節約されるが、その背後では同じぶんだけ直観的思考が働いている。そしてその能力は脳の学習能力にバウンドされているから、必然的に我々の自然に対する理解力には限界があるということになる。おそらく将来我々は「まったく納得は得られないが予測は可能である」という形で自然と向き合うことを迫られるだろう、と思う。人より賢い計算機の手を借りて。