Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0226

 僕は「ほんとうの」よりもむしろ「結局のところ」が知りたいのだな、と思った。

 引っ越しをしました。長いあいだ貼っていた絆創膏を引剥したときみたいな痛みがあります。この痛みもまた時間とともに癒えてゆくのでしょう。そして癒えてしまった傷跡を見て一抹の虚しさを感じるのです。過去はスーパーボールのように跳ねながらやがて動かなくなってゆきます。

 平均が先にあってその周りに値が集まっているのではないように、目標に向けて放たれた銃弾は、「真の軌跡」の周りに分布するのではなく、そのように分布する銃弾たちが総体として目標を狙うのだ。確率分布を所与のものみたいに扱っていると忘れてしまいがちだけれど、「理想的なシステムの不完全な実現値」があるのではなく、そういうばらつきのある状態たちの中に理想的なシステムが浮かび上がって見えるだけなのだ。この順番を逆にしてはいけない。と思った。

 引っ越しに託つけてHHKBを買いました。こいつぁすげぇや……

0206

 自分の関心を大事にするのと同じくらい、自分の無関心を大事にしなくてはならない。いろいろなことに興味を抱き、退屈を趣味で埋めてしまうような人間になってはいけない。つまり自分の心に嘘をついてはいけない。

 物事を相対化するのは、実はとてもむつかしい。選択肢を並置して上から眺めただけでは相対化したことにならない。そうした選択肢を可能としている背景それ自体を括弧に入れる必要があり、そのためにはある種の「修行」が必要になる。自分が普段使いしている言葉たちから距離を置くための修行が。

0204

 「罪人である自分」に対する憐憫ほど醜悪なものはない。気をつけること。

 この肉体は自然法則に縛られた物質の振る舞いに過ぎないというのに、どうしてそれが〈私〉であることが可能なのか。〈痛み〉や〈赤さ〉を擁しうるのか。15年もの間、僕はこの問いに駆動されて生きてきた。だが現在の僕にとってそれはもはや正当な問いではない。厳然たる法則に支配された冷徹で客観的な宇宙という観念を、すでに信じることができなくなっているから。その代わりにいま僕が信じているお話はこうだ。この世界に書き記されたとある物語においては、人間(あるいは知性)とそれに観測される客観的宇宙という構図は確かに意味をもつ。だがそれはあくまで一つの物語の中での話である。その物語は、観測者と被観測者を、観測という言葉の意味も含めて規定しており、それゆえに登場人物であるわれわれ人間は、ある特権的立場、つまり主観に立って客観的宇宙を観測しているように思っているのだが、それは物語の筋書き的にそうなっているだけなのであって、この物語を支えている真の自然を観測できているわけではない。そもそもそちらの自然の上では「観測」など考えることはできないのだ。そこは物語の外側なのだから。僕がこのようなお話を信じる根拠はいくつかあり、もっとも説得力があるのは、われわれの考える秩序はいくら硬くツルツルしたもの(世界の側に属するもの)に思えようとそれが破綻するポイントを示すことが出来るという経験的事実だが、僕の信仰を敷衍するならばこれもまた物語の筋書きに過ぎず、さしたる意味はない(そしてこの自己完結的な性質こそが、僕がこのお話を気に入っている最大の理由でもある)。そういうわけで、僕に残されている問いは「なぜこのお話は書かれたのか」をおいて他になく、それはもはや答えを期待できるようなものではない。物語の外には問いも答えもないのであるから。

0203

 今朝、「朝っぽい曲をかけて」となんとなしにGoogle Homeに頼むと、ジムノペディ第一番が流れはじめた。たしかに朝っぽいが、しかしこれはすべてが過去になったあとの朝という雰囲気である。闘いに背を向けて得た平穏、戦線復帰への助走。起承転結でいうと転にあたる朝。

 ウナギという種を滅ぼすことは、ある一匹のウナギを殺すことよりも重罪なのだろうか?

0125

 『ONCE』と題された谷川俊太郎の初期の作品を集めたアンソロジーを読んでいる。彼の十代の頃の文章が載っていて、まさに才能!という感じなのだが、そこにはやはり十代特有の青臭さが滲んでいてなんだか安心したりする。ここでいう青臭さとは未確立な表現様式、収束途上の内省が生み出す万華鏡様のノイズのことであり、その振れ幅が「才能を感じさせる」のだが、それはまだ才能として結実しているわけではない。そういう「才能を感じさせる」文章が僕は好きだ。さてこの文章はどうかな、なかなかうまくいかないよな。

0121

 ウィトゲンシュタインが試みたのはつまりこういうことだ。対象とその記述という二項対立を統合的に解消すること。それらが実は同じ階梯にあることを示すこと。呻き声が〈痛み〉を記述しているのではなく、呻き声がまさに痛みであり、記述される「痛みそのもの」と目されていたそれもまた振る舞いの一部なのだということ。内的/外的の区別が本質的なものではなく、文法的に塗り分けられた同一平面上での区分であることを明らかにすること。